竹迫城(たかばじょう)は標高93m(比高30m)の連郭式平山城で、別名を合志城(こうしじょう)・蛇尾城・穴の城・上庄城とも言います。
最初の築城は鎌倉時代はじめの建久年間(1190年~1198年)で、肥後・合志郡(熊本県合志市)の地頭となった鎌倉御家人・中原師員が竹迫城を築き、竹迫輝種と称した模様です。
この中原師員(なかはら-の-もろかず)は、明法道や明経道を司る家系で藤原頼経に仕えていました。
藤原頼経が摂関将軍として鎌倉に下向した際に中原師員も伴うと、そのまま幕府の官僚となり、1225年には中条家長、三浦義村、二階堂行村らと共に鎌倉幕府の評定衆に選出されています。
中原師員は、最初は原口城を本拠としましたが、竹迫城を築いて居城を移したようです。
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もっと古い時代には火の道の尻の邦に属した「加波志」と呼ばれていたようで、応神天皇の時代に郷邑(ごうゆう)と地名が「皮石」と改正されました。
更には元明天皇の頃(700年代)に「好字好音」の詔が発せられたのに伴って現在の「合志」と言う地名に変わったようです。
1337年(延元2年・建武4年) 南北朝の争いの際、竹迫城主・合志幸隆は北朝に味方したため、南朝方の足利直冬の軍勢である菊池武重が竹迫城を攻めています。
1510年(永正7年)に、第15代の竹迫公種が大友義鎮(大友宗麟)に従って330年間居城とした竹迫城から豊後へ移ります。
そのため、1511年(永正8年)に、菊池家の重臣である合志隆岑(合志蔵人少輔隆岑)が、池上城から移って竹迫城主となっています。
その後、合志隆房・合志高久・合志親為・合志高重(合志隆重)と続きますが、竹迫城は合志城と名前が変わりました。
合志重遠(こうし-しげとう)と言う武将もいたようですが、この合志重遠丹波守重遠は菊池重安の次男で、合志高久の養子となりました。
同じ、合志高久の養子となった跡継ぎに合志親為(こうし-ちかため)がいます。
合志伊勢守親為は赤星重隆の次男で、合志親賢(こうし-ちかかた)とも書きます。
この合志親為(合志親賢)は武勇ある武将で、菊池義武の隈本城復帰を助けました。
1551年、菊池義武に協力したため、大友義鎮(大友宗麟)から竹迫城を攻められますが落城はしなかったようです。
1559年、菊池城を隈部氏に奪われた赤星統家は、叔父である合志親為(合志親賢)の合志城(竹迫城)に身を寄せています。
1561年、相良氏、名和氏との対立を合志親為が仲裁しています。
1578年、耳川の戦いにて大友宗麟が大敗しても合志隆重(こうし-たかしげ、合志隼人佐隆重)は、そのまま大友家に属しました。
1580年、島津義久、城親賢らとの「久保田の戦い」に敗れ、1581年、龍造寺隆信が肥後に侵攻して、江上家種を大将として赤星勢の星子廉正が守る長坂城を攻撃します。
赤星統家の叔父・合志親為は星子廉正に援軍を送りました。
合志親為の嫡男・合志親重は、龍造寺政家・隈部親永らと戦いますが、合志親為の家臣・大津藤左衛門が内応した敗戦し、合志親重は竹迫城へ退却しています。
そのため、長坂城は落城して星子廉正は自刃しました。
そして、合志親為と合志親重も龍造寺家に降っています。
その後、島津家の勢力が伸びてくると、城・甲斐・志岐・赤星・隈部・合志の諸氏はみな島津家に臣従しました。
1584年(天正12年)、合志親為が島津義久に内応した事が発覚し、佐賀城主・龍造寺隆信の攻撃を受けています。
このとき、有馬晴信から援軍を得たようですが、龍造寺家に降伏すると、家督を嫡男・合志親重に譲って合志親為は隠居しました。
合志親重は合志親為の嫡男とご紹介していますが、合志高久の次男ともされ諸説あり、合志親泰とも書きます。
龍造寺家に降伏した翌月に沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が討死したため、合志親重(合志親泰)は島津義久と和平交渉をしますが成立していません。
そして、1585年(天正13年)、島津義久勢の新納久饒、川上忠堅の攻撃を受け合志城は落城し、合志親重(合志親泰)は開城し、新納忠元、稲田新助に城を明け渡した。
しかし、津森城主・光永宗甫、高森城主・高森惟居らとは、島津家に反旗を翻します。
この時、光永宗甫、高森惟直、木山惟久らと共に合志高重(合志隆重)は討死した模様です。
1586年、合志親重(合志親泰)ら一族は捕えられて薩摩の羽月に送られます。
合志伊勢守親為(合志親賢)が助命嘆願するも認められず、合志親重(合志親泰)ら一族は謀殺されたと推測されます。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州攻めとなると、新納忠元・伊集院忠棟は八代城に撤退する際に竹迫城を焼却しました。
そして、佐々成政が熊本城に入りますが、肥後国人一揆の際に、合志親為(合志親賢)は山鹿の近く高挟城(竹迫城のことか?)に入って、一揆に同調した模様です。
龍造寺政家が豊臣家より攻略を命じられ、降伏を促しますが合志親為(合志親賢)は拒否した為、9月5日に龍造寺政家・鍋島信生は、先手を江上家種として攻めました。
合志一門は撃って出て激しく抵抗したようですが、合志明存入道・合志対馬守が討死。
気力を失った兵は城に戻ると、鍋島家臣の武藤貞清が火矢を放って城が燃え始めた為、合志親為(合志親賢)は城を捨てて逃亡したとも降伏したとも言われています。
ただし、1585年10月に合志親為(合志親賢)は八代にて病死したとする説もありますが、1594年に死去したともあります。
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なお、豊臣秀吉からの安堵状(朱印状)が、合志高重(合志隆重)の子・合志千代松丸に与えられています。
出家していた合志親為は、この孫・千代松丸を伴って島津家に帰順を申し出て許されており、家名が残ったようです。
肥後国誌では、合志高重(合志隆重)の甥・合志吉兵衛が加藤清正に500石で仕えているのが見受けられます。
以上、合志家に関しては出来る限り情報を集めてみましたが、史料も乏しく正直なところ、上記も怪しい部分があります。
よろしければ、皆様からの情報もコメント欄にお寄せ願えますと助かります。
現在の竹迫城は、竹迫城跡公園と綺麗に整備されていて、トイレも完備されています。
公園の南側に駐車場がありますが下記の地図ポイント地点となります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
見学所要時間は約20分といったところです。
参考として記載しておきますが、北肥後の8郡は合計で24万6000石と考えられます。
玉名郡:筒ヶ嶽城、田中城、坂本城
山鹿郡:城村城、山鹿城
菊池郡:隈府城
阿蘇郡:高森城
合志郡:竹迫城
山本郡:内村城
飽田郡:楠原城
託麻郡:城は不明
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菊池家三家老(きくちけさんかろう)は、赤星親家、隈部親永、城親冬。
菊池家五家老(きくちけごかろう)は、赤星親家、隈部親永、鹿子木鑑有、田島重賢、木野親則。
和仁五人衆(わにごにんしゅう)は、和仁親実、和仁親範、和仁親宗、中村治部、辺春親行。
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全国に今でも千人以上合志姓の方が居ると聞きました、皆さん何処で繋がって居るのでしようね~
少しロマンを感じます
今年親父が94歳に成ります、母方の墓も熊本に在るんので元気なウチに連れて行きたいと思います娘高1と中2も連れて
合志城跡行って見たいです
もしかしたら、その地に御先祖様が立って居たのかと思うと感慨深いです