石川県

今江城 加賀守護の富樫泰高が築いた拠点

信濃・愛宕城

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今江城(いまえ-じょう)は、石川県小松市今江町にあり、柴山潟も望める台地上の平山城で、別名は、御幸塚城、富樫泰高館とも言います。
御幸塚城の名前は、花山法皇の御幸があったことに由来しているようです。
最初の築城は不明ですが、加賀南部・半国を治めた、加賀守護・富樫泰高の居城であったとも伝わります。
富樫泰高(とがし-やすたか)は、代々、加賀介を世襲して、富樫介を称した、富樫氏の第17代当主になり、本拠は加賀・高尾城でした。


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1441年、兄・富樫教家が、室町幕府6代将軍・足利義教から蟄居を命じられたため、醍醐寺の僧侶になっていた富樫泰高が還俗して家督を継ぎました。
その5日後、足利義教が赤松満祐によって暗殺される嘉吉の乱になると、兄・富樫教家は、畠山持国の支援を受けて、富樫泰高に家督返上を要求しました。
しかし、富樫泰高は、応じず、管領・細川持之の協力を得たため、富樫家は内紛「加賀両流文安騒動」となっています。

今江城

1442年、細川持之が辞して、新しい管領・畠山持国の後ろ盾を得た富樫教家は、子の富樫成春を加賀守護にすることに成功し、富樫泰高らは不利になっていますが、加賀守護だった斯波満種の子・斯波持種が味方についています。
1445年、細川勝元が管領になると、今度は富樫泰高らが有利となり、富樫教家らを加賀から追放しました。
1447年、両者は和睦し、富樫成春が加賀北半国、富樫泰高は南半国の守護に任じられました。

今江城

しかし、次第にまた仲が悪くなり、1458年、細川勝元の命によって赤松政則が加賀北半国の守護となって、兄・富樫教家と富樫成春の父子は、またも追放されています。
1462年、富樫成春が病死すると、富樫泰高が加賀一国の 守護となりましたが、本願寺の一向一揆も活発化します。
1464年、富樫泰高は隠居し、家督は亡き富樫成春の子・富樫政親が継ぎました。
1488年、富樫政親は、高尾城の戦いにて、加賀一向一揆に敗れて、富樫氏は没落しました。
1493年、足利義稙が、明応の政変にて、越中・放生津城に逃れてきた際には、富樫泰高も馳せ参じましたが、その後の動向は不明でして、まもなく死去したものと考えられます。

今江城

その後、しばらくして、今江城は一向一揆が使用するようになっており、朝倉氏も2度、今江城を攻撃しています。
1576年には、今江城から出陣した加賀一向一揆が、織田勢を攻撃しました。
そのため、 織田信長佐久間盛政を派遣して、今江城を包囲し、佐久間勢の徳山則秀の策略にて、一揆勢に内応者を取り付け、今江城を陥落させました。
そして、、徳山五兵衛、佐久間盛政、徳山小左衛門と今江城に入り、1580年、織田勢は、尾山御坊を攻めて、金沢城と改名した次第です。

1582年、本能寺の変にて、明智光秀が織田信長を討つと、再び一向一揆が今江城を占領しました。
そのため、1585年、豊臣秀吉の軍勢が攻めて落としています。

1600年、関ヶ原の戦いの際には、前田利長の軍勢(山崎長徳、長連龍ら6将)が今江城に布陣し、加賀・小松城から出陣した西軍の丹羽長重浅井畷の戦いとなりました。


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那谷街道の抑えである今江城の本丸は、今江小学校の南にある高台で、小学校に隣接する形で公園整備されています。
櫓台跡の近くに、トップ写真の石碑もありました。
今江小学校がある場所は、二の丸跡と言う事になるようです。

今江城への交通アクセス・行き方ですが、クルマ・バイクでないとかなり不便なのですが、また駐車場が無いのが難点です。
公園への入口を当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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