長久手城
長久手城は、愛知県愛知郡長久手町城屋敷2408にある平城で、最初の築城年代や築城者は不明です。
戦国時代には、織田信雄に仕えていた加藤忠景(加藤景常)が、前領主・斎藤氏の古城を修築して居城としていました。
この加藤忠景は岩崎城主・丹羽氏次の姉を正室に迎えおり、また娘を丹羽氏次の継室にと嫁がせていました。
現在の長久手城址は小さな公園になっており、のちに観音堂が建立されました。
その観音堂の脇に、長久手城趾や案内板がありますが、城の遺構は全く消滅しています。
小牧・長久手の戦いの際、加藤忠景は徳川家康に従い、義弟である岩崎城主・丹羽氏次の留守を預り奮戦しましたが、討死したとされています。
なお、別の説では、加藤忠景(加藤景常)は岩崎城では討死しておらず、のちの5月7日の加賀井城の戦いにて討死したともありますが、加賀井城の方が正しいような気もします。
長久手城跡がある場所は、住宅地の中ですので、ちょっと分かりにくいです。
オリジナルGoogleマップにて正確にすべての場所を示していますので、ご参考にして頂けますと幸いです。
・「尾張・美濃」にある戦国史跡跡オリジナル地図(Googleマップ)
岩作城
同じ長久手の戦いで戦場となった長久手城からほど近いところに、岩作城跡があります。
だいたい90m×70mくらいの方形単郭の居館城であったようですので、平城です。
この付近は都市化も進み遺構は失われていますが、今井五郎太夫、今井四郎兵衛といった名が城主として見られます。
1584年、の長久手合戦で岩崎城に籠城して討死した武将に、今井四郎三郎の名があり、今井四郎兵衛の子ではないか?と推定されています。
他にも、長久手の戦いで、岩崎城に籠城将士の中に、今井七右衛門、今井小右衛門、今井助八郎、家老の今井小八郎らが見受けられます。
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岩崎城は岡崎城奇襲を試みた池田恒興によって攻略されて、将兵300名が討死したとあります。
なお、今井七右衛門は、今井勝澄と言い、武田信玄に仕えていた使番十二人衆の一人であったようで、武田滅亡後に徳川家康に仕えていたと考えられます。
この今井勝澄は、岩崎城籠城時に、使番の旗印である青地に百足を金で描いた旗指物を背に指して戦い、敵の8~9人を討取ったあとに討死した言われています。
岩作城跡は、現在の長久手市役所がある場所となります。
市役所の南東側の信号のところに石碑があります。
岩崎城の石碑がある場所は、当方のオリジナルGoogleマップでも正確な場所を示させて頂いております。
長久手市役所の駐車場を拝借できますが、結構、混雑していました。
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