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佐和山城とは
佐和山城(さわやま-じょう)は滋賀県彦根市にある標高は232m、比高は134mの山城で、丹羽長秀や石田三成の居城であり、東山道(中山道)(現在の国道8号)の抑えでした。
最初の築城は、鎌倉時代の近江守護職・佐々木定綱の六男・佐保時綱であるとされ、建久年間(1190年~1198年)の文献にも佐和山砦の名が出てきます。
室町時代の応仁年間(1467年~1468年)頃には、六角家の家臣・小川祐忠が佐和山城主であったとされます。
戦国時代の後期には、小谷城主・浅井長政の支城となり、佐和山城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ激戦を繰り広げています。
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1571年2月に磯野員昌が降伏すると、織田家の重臣・丹羽長秀が佐和山城主となりました。
1582年6月、明智光秀の本能寺の変のあと清洲会議にて、明智光秀の討伐に功があった堀秀政に佐和山城は与えられ、掘秀政は翌年1583年に入城しました。
堀秀政の留守中には、弟・多賀秀種が佐和山城代を務めたと言います。
上記写真の背後にある山が佐和山城です。
1585年、佐和山城主に堀尾吉晴が就任したあと、1590年?に豊臣秀吉の五奉行である石田三成が佐和山城主となりました。
石田三成は、当時荒廃していた佐和山城の大改修を行い、山頂に五層天守(三層説もあり)を設けた立派な近世城郭にしたと言われています。
「三成に過ぎたるものが二つあり。それは島の左近と佐和山の城」と豊臣秀吉に言わせました。
ただし、石田三成は奉行であったことから、ほとんど伏見城におり、佐和山城代としては石田三成の父・石田正継が担当していたと言います。
佐和山城の作りは極めて質素で、城の居間などのほとんどは、飾り気のない板張りで、壁もあら壁のままであったとされます。
1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成を破った徳川家康は、小早川秀秋を先鋒として15000にて佐和山城を総攻撃しました。
佐和山城の戦いです。
当然、石田家の主力は関ヶ原で戦っていたため、残された佐和山城の守備兵は僅か2800であったとされます。
城兵は奮戦し敵を寄せ付けませんでしたが、長谷川守知などが裏切り、敵を城内に手引きしたため、9月18日に佐和山城は落城となりました。
この時、石田三成の父・石田正継と石田正澄(石田三成の弟)は自刃。
石田三成の正室・うた(皎月院=真田昌幸の正室・山手殿の妹)は家臣・土田桃雲が介錯し、天守に火を放ちました。
板坂卜斎の記録によると、落城した佐和山城内には蓄えの金銀は少なかったとあります。
小谷城の北方へと逃亡していた石田三成も9月21日に田中吉政によって捕えられています。
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関ヶ原の戦いのあと、佐和山城主になったのは、徳川家康の重臣・井伊直政です。
しかし、領民が善政を敷いた石田三成を慕っていた事からか?、はてまた、石田三成の悪霊がいるなどの噂からか?、井伊直政は佐和山城の事を嫌ったと言われています。
もっとも、井伊直政は関ヶ原にて鉄砲傷を受けており、経過が悪かったことから、ラクな平地に城を求めたのかも知れません。
井伊直政は、徳川家康の許可を得て彦根城の築城を開始しますが、彦根城は防衛上の要でもあったため「天下普請」として近隣の諸藩が工事を担当しました。
井伊直政は1602年に亡くなりますが、家督を継いだ井伊直孝のときである1603年から彦根城が築城開始されます。
1606年に建設途中の彦根城に井伊直孝が入ると、佐和山城は廃城となりました。
佐和山城への登り方
佐和山城の大手は南側で、水堀?もあったようです。
また、東側にも登城口がありますが、いずれの方面からも訪れる人は少なく、現在は途中から道がヤブになっているようです。
そのため、現在、佐和山城へ登るには北西側にある「彦根・龍潭寺」の境内から入る方法が一般的です。
現在、龍潭寺の境内から佐和山の山頂まではハイキングコースとして整備されており、彦根城や琵琶湖などが一望できます。
JR彦根駅からだと、レンタル自転車(レンタサイクル)で約15分の距離です。
駐車場は下記地図のポイント地点にある、彦根市の無料駐車場が利用できます。
トイレも駐車場にあります。
さて、彦根・龍潭寺の境内に入って行きますが、参道脇には石田三成の銅像もありました。
石田三成のファンの方が設けたそうです。
下記は近年に建立された供養塔のようで、石田三成群霊供養塔と呼ばれています。
また、中門などに、佐和山城への進み方などが掲載されていました。
彦根・龍潭寺へは基本的には朝9時~16時?に入れるようです。
この龍潭寺が佐和山の全山を所有しており、登山は無料開放なさっておられます。
道なりに境内を進むと正面に下記の大洞観音堂が見えてきます。
その大洞観音堂の右脇奥へと進んで行きます。
境内で迷う方がいるのか?、案内があり、分かり易かったです。
麓の龍潭寺から佐和山城の本丸へは、徒歩20分の登りとなります。
スニーカーなどでも大丈夫ですが、今回は小谷城などにも登る為、トレッキング・シューズ、トレッキングポール(ストック)、そして登山用ズボンの装備を準備しました。
案内通りに境内奥へと進むと、古い墓地になっており、その間を抜けて進みます。
やがて、道は登坂となり、人ひとりが歩けるほどの山道をせっせと登って行きます。
日頃、運動不足の小生には堪えます。
夏場は水分補給と虫除けの対策があると良いでしょう。
この道は「龍潭寺越え」と呼ばれた、かもう坂通りの往還で、上記写真がその「峠」となります。
峠を右手(南)に進むと、佐和山城の本丸方面となります。
整備されており歩きやすいですが、この手の山城の場合、落ち葉があると足元が滑りやすいですので、注意して歩いてください。
下記は塩硝櫓跡です。
大きな穴が開いていましたが、昔からあったと言う事です。
また、彦根藩に残る絵図では「塩櫓」と記載されている事から「塩」を保管していた見るのが正しいようです。
途中、竹林を抜けて行きます。
すると、佐和山城の西の丸に到着しました。
佐和山城の城域の配置は下記のような感じです。
更に本丸方面に歩いて行くと、ちょっとした堀切もありました。
そして、本丸へは最後の登りとなります。
本丸のすぐ手前までやってきました。
使われていた石垣などは、彦根城の新築時に再利用されました。
佐和山城の本丸です。
井伊直政が山頂部を14mも削ったとされていますので、石田三成の頃の山頂は、もっと狭かったものと推測致します。
下記は佐和山城から彦根駅方面の展望です。
もちろん、彦根城の国宝天守も見えます。
近江・佐和山城跡を示す石碑なども設置されていました。
下記は、佐和山城にあった供養碑です。
下記は、佐和山城の案内図になります。
彦根・龍潭寺にある茶室は、佐和山城の城門を再利用したとされており、庭園と共に別途有料拝観できますので、佐和山城の登山前後にでも是非見学なさってみて下さい。
また、龍潭寺の隣にある清凉寺は、石田三成の重臣・島左近の屋敷跡とされますのでセットで見ておきましょう。
以上のコースでの往復であれば、龍潭寺と清凉寺も見学して、所要時間約60分といったところです。
佐和山城の中腹付近には、石田三成の屋敷跡がありました。
以上、超有名な佐和山城ではありますが、国史跡など、史跡としての指定はひとつも受けていないのが現状です。
・彦根・宋安寺~佐和山城の大手門が移築されている名刹
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・石田三成とは~律儀で算術が得意だった才ある武将
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・井伊直政をわかりやすく解説【どうする家康】井伊の赤鬼の異名を誇る徳川四天王
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・彦根・龍潭寺と清凉寺【井伊家菩提寺と島左近屋敷跡】
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