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鳥取城の戦い
鳥取城(とっとり-じょう)は、鳥取県鳥取市東町にある山城で、日本100名城にも選ばれています。
戦国時代に、死を覚悟して鳥取城に入った吉川経家が兵糧攻めの末に切腹した「鳥取の飢え殺し」でも有名な鳥取城ですが、その後の戦国時代の鳥取城と、関ケ原の戦いの際の鳥取城を調べてみました。
山中鹿之助と尼子勝久を支援して鳥取城主となった山名豊国でしたが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に包囲されて、吉川経家が毛利家から派遣された前後、城兵を置いて、山名豊国は織田勢にひとり降伏しています。(家臣に追放されたとも?)
このように判明しているだけで、山中鹿之助から2度、吉川元春にも2度、豊臣秀吉からも2度も攻撃を受けた鳥取城ですが、その後、城主となったのは、羽柴秀吉の与力となっていた宮部継潤でした。
1585年の九州攻めのあと、宮部継潤は50000石を与えられ、正式に鳥取城(とっとりじょう)を本拠と、山上ノ丸の改修しています。
隠居すると子の宮部長房が継いでいますが、1600年(慶長5年)の会津征伐においては、最初、徳川家康の指示に従って500人を率いて東へと向かっています。
その宮部長房(みやべ-ながふさ)が鳴海まで到達したところで、石田三成が挙兵したとの知らせが届いたと言います。
それは、大洲城主・池田秀氏からの知らせだったようで、既に与力の木下重堅、垣屋恒総が西軍に味方していると言う情報もあったようです。
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ただちに大将格の七人衆に相談したところ、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は石田三成に協力するべきと言いますが、残りの宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは反対したとされます。
しかし、宮部長房は石田三成に味方するため、戻る決断をしました。
熱田の渡しから桑名へと海路で戻ろうとしますが、徳川勢の警戒が厳重で、船の確保が難しかったようです。
そのため、夜陰に紛れて渡ろうと、船を銀200枚で一艘借りる約束を取り付けたと言います。
しかし、一隻では全員乗れないので、上下の者13人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かいました。
でも、約束の船がおらず、辺りを捜しまわることになったとされます。
一方、陣中では宮部長房がいなくなったと騒ぎになり、主君が西軍に走ったと予測できても、家臣らはどうしようもなく、昔からの縁がある田中吉政の軍勢に加わえてもらったともあります。
宮部長房らは船が見つからないまま、朝を迎えてしまい、やむを得ず陣にも戻るもすでにもぬけの殻で、騒ぎを聞いて駆け付けた徳川家臣が宮部長房を拘束しました。
そして、岡崎城にて宮部長房は拘束されたと言います。
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鳥取城は西軍についたと言う事で、関ヶ原合戦で西軍が敗れた後、鹿野城主・亀井茲矩が関ケ原から戻って、宮部家の城代家老・伊吹三左右衛門らが籠城する鳥取城を攻撃しています。
しかし、堅城でなかなか落ちないため、西軍の但馬・竹田城主である斎村政広を寝返らせて援軍として駆けつけさせました。
さらに鳥取城下を焼き討ちして、ようやく落城させましたが、この焼き討ちは、徳川家康の不興を買っています。
しかし、斎村政広が焼き討ちの首謀者とされ、責任を取って自害させられましたが、亀井茲矩はもともと東軍であったため、免れています。
一方、宮部長房は、田中吉政の助命嘆願にて、なんとか命は助けられましたが、七人衆で西軍加担を進言した三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は切腹を命じられています。
宮部長房は田中吉政に預けられたあと、のち南部利直の預かりとなり、約460石70人扶持の支給を受けています。
剃髪して長令と号しますが、寛永11年(1634年)に盛岡で没しました。
関ケ原のあとの鳥取城ですが、池田恒興の三男・池田長吉が6万石で入り、近世城郭へと改修されました。
1617年には、池田光政が因幡・伯耆32万5000石として鳥取藩主となり、鳥取城は更に大改修されています。
鳥取城は別名を久松山城とも言う山城ですが、麓や中腹も強固に整備されている梯郭式平山城にも分類され、国の史跡になっています。
戦国時代には独立式望楼型3重の天守がありました。
その後、1605年に複合式層塔型2層2階地下1階の天守が設けられたとされています。
鳥取城のみどころ
鳥取城は標高は263m(久松山)で、比高は240mと結構な山城です。
麓から本丸までは上り坂と階段を約30分の道のりと言う事で、今回は断念しようと思っていたのですが、よ~く上の方を見ると、山頂に素晴らしい石垣が見えるではないですか?
これは登るしかないと、クルマにトレッキングポールを取りに戻り、予定を変更して登城して参りました。
結果的に、登ることで、豊臣勢が力攻め出来なかった理由も良くわかりましたし、山頂(本丸)からは鳥取砂丘も見えましたので、よかったです。
登山道は整備はされていますが、軽い登山と言う感じですので、ストックは無いよりあった方が良いですし、スニーカー以上の靴も必要です。
もちろん、スカートでは困難ですので、女性の方はご注意願います。
途中、途中に「何合目」との標識がありますので、まぁ、あとどのくらいで到着するか?、だいたい把握しながら登れます。
下記の石垣を抜けると山頂部です。
さて、平日の昼頃に登ってきましたが、意外と登っている方多かったです。
お会いしたのは、大学生?のカップルのような男女、70歳は過ぎているであろうガンバ大阪のレプリカを着たおじいさん、他にも道を譲ってくれたご夫婦、道のゴミ拾いをしながら登っている方(公園管理者さんかな?)と結構、いらっしゃいました。
下記は山頂部の井戸です。
ガンバ大阪のユニフォームを着て登っていたおじいさんには、こんにちはの挨拶以外に「私もガンバ好きですよ」と声を掛けてしまいましたよ。
しかし、息が上がっていたご様子で「はー」程度のお返事しか頂けませんでした。(*^^*)
鳥取はJリーグのチーム、無いのかな?
鳥取城の観光所要時間は、山頂までの往復だと約70分、麓の二の丸石垣部分だけの見学ですと、約30分といった感じです。
夏場は熱中症対策、虫除け必須です。
下記は鳥取城からの展望です。
右側には鳥取砂丘も見えました。
鳥取市の中心部も非常によく見えますので、まさに難攻不落の山城だとわかります。
交通アクセス
鳥取城へのアクセス・行き方ですが、JR鳥取駅からですと、貸自転車(レンタサイクル)が便利です。
鳥取駅高架第2駐輪場にて1日500円、貸出時間は8:30~18:30で年中無休です。
クルマの場合、鳥取城の久松公園手前の道路が駐車可能になる時間があります。
だいたい20台くらい止められるのですが、私が訪れた時には満車で、県立博物館裏の駐車場も止められなかったので、鳥取県庁の無料駐車場まで走りました。
下記の地図ポイント地点が、県庁駐車場の入口です。
鳥取城の久松公園は桜の名所としても有名ですが、国の重要文化財になっていて、るろうに剣心のロケ地でもある、明治建築の洋館「仁風閣」もあり、JAF会員カードで割引で入れます。
この記事は、当方の関ヶ原情報より再編集したものとなります。
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