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真田の里紀行シリーズ、信綱寺(打越城・真田古城)と真田信綱の墓所です。
打越城(真田古城)
打越城(真田古城)は、横尾采女守が最初に築いたとされています。
1550年の上田原合戦にて、横尾采女守は村上義清に協力して、武田信玄と戦って討死しました。
残された幼君と家臣らは、上州へ逃れたと伝えられています。
信濃・戸石城(信濃・砥石城)の村上義清を破った真田幸隆が打越城主となると、真田本城ができるまでのあいだ、真田家の本拠地になったと考えられているようです。
上記「丘」の左先端辺りが打越城(真田古城)だったようです。
この丘の北側に「信綱寺」があります。
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信綱寺
もともとは横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺により室町時代に創建された模様です。
真田信綱がまだ存命中のときに、横尾城の東にある梅ノ木の場所から、移転させました。
現在の信綱寺(しんこうじ)の場所は、恐らくは打越城主だった時代の、真田幸隆の屋敷機能があったものと推測致します。
1575年、長篠の戦いにて、真田信綱と真田昌輝が討死します。享年39。家督を継いで僅か1年でした。
そして、武藤家の養子になっていた武藤喜兵衛が、武田勝頼の命により真田家を継ぐ事となり、真田昌幸が打越寺を改築して大柏山「信綱寺」とし、兄・真田信綱の墓所と定めました。
訪れて一番ビックリしたのは、大変立派なお寺だった事です。
真田家の菩提寺と言う訳ではありませんので、大変失礼ながらもうちょっと規模が小さい風に想像していました。
左の裏山の墓地にまわってみたのですが、お墓の場所がわからず、戻って聞こうと思ったところ、ご丁寧に声を掛けて頂きまして、無事にお参りする事ができました。ありがとうございます。
真田信綱の墓がある場所は、本堂の右側(鐘台の外)に進みまして、裏山へ続く舗装路をちょっと歩くとあります。
真田信綱の遺体は、甲冑姿のまま家臣・白川勘解由の兄弟がここまで運び、埋葬したと伝わります。
その時の血染めの陣羽織や、真田昌幸から信綱寺に宛てた書状などが宝物館に納められていますが、宝物館は事前電話予約制で100円(たぶん)となっています。
墓は左から真田信綱の夫人、真田信綱、真田昌輝です。
※妻の墓は別の寺にもあり、真田昌輝の墓も含めて、推測となっています。
脇には白川勘解由兄弟の墓もありました。
しかし、境内はほんとうにキレイに清掃も行われており、管理されている皆様のご苦労も伺えます。
上記写真は、信綱寺の手前にある「歴史の丘」です。
一応、真田3代の歴史が左から右へと分かるようになっているようですが、ここが館跡であったともされています。内小屋城(内小屋館跡)とも言うサイトがありますが、内小屋城は上田市横尾内小屋にあるようです。
おまけ写真は六地蔵さまです。六地蔵も立派でしたよ。
さて、信綱寺への行き方・交通アクセスですが、下記の地図ポイント地点が駐車場となります。
手前には真田古城霊園用の駐車場がありますが、通り過ぎて下さい。
お寺の駐車場付近にトレイもあります。トイレも綺麗に管理なさっておられます。
信綱寺と墓だけでしたら、観光所要時間は約15分です。
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