尾張・蜂須賀城(はちすかじょう)は、愛知県あま市蜂須賀にある平城です。
諸説ありますが、鎌倉時代末期頃に尾張守護の斯波義重に従って蜂須賀郷に入った斯波氏の庶流が蜂須賀氏と称したともされます。
蜂須賀城は、結構、大きな約200mの方形城館だったようで、蜂須賀家の菩提寺・蓮華寺が近くにあります。
戦国時代の蜂須賀正永の代までは尾張守護の斯波義寛に仕えていましたが、斯波氏は衰退し、蜂須賀正利は美濃・稲葉山城の斎藤道三に従い200貫を得ました。
そして、1526年、側室・安井御前が蜂須賀正勝(蜂須賀小六)を蜂須賀城で産んでいます。
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1553年に父・蜂須賀正利が死去すると蜂須賀正勝(蜂須賀小六)は蜂須賀城を出て斎藤道三の近侍となりました。
これは、敵対した織田信秀によって蜂須賀城を奪われたともされ、安井御前の実家となる宮後城へ逃れたと考えられます。
蜂須賀小六の子・蜂須賀家政は、1558年に宮後城で生まれました。
安井御前の弟・安井重継は、浅野長詮の娘と結婚して浅野家の養子になっていました。
そして、1547年に、長男・浅野長吉(浅野長政)が生まれています。
浅野長吉(浅野長政)は、妻の弟である浅野長勝の養女・やや(長生院)の婿養子となって、浅野家の家督を継承しました。
その浅野長勝の妻・七曲殿(ふく)は、杉原家利の娘で、杉原定利の2人の娘が、浅野家の養女となりました。
この養女となった娘の次女が「ねね」で、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐことになります。
もちろん諸説あります。
そして、蜂須賀正勝は、木下秀吉に協力するようになり、墨俣城の築城に貢献するなどし、出世していくのです。
若い頃の木下藤吉郎は、蜂須賀小六の父・蜂須賀正利に仕えていた時期があったともされます。
なお、蜂須賀小六の弟・蜂須賀勝秀は、蜂須賀郷に残っていたようで、尾張・蜂須賀家は、江戸時代に尾張藩から苗字帯刀を許されています。
蜂須賀正勝は、1573年に53000石にて播磨・竜野城主となり、蜂須賀家政は、関ヶ原の戦いのあと徳島城に入って、阿波・徳島藩25万石の基礎を築きました。
蓮華寺には、奥の方に蜂須賀小六・蜂須賀家政の合葬墓碑があります。
ただ、訪問させて頂いた日には下記の通り閉鎖されていたため、遠慮させて頂きました。
なお、蜂須賀城があった場所は蜂須賀グラウンドとなっている場所のあたりだったようです。
名鉄・津島線の青塚駅から徒歩10分ほどになります。
連華寺の参拝者用無料駐車場が利用できますが、周辺の道路はちょっと「狭い」のでアプローチする道路選択や運転にはご注意を。
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