甲斐・小田野城
甲斐・小田野城は、山梨県山梨市牧丘町西保中にある標高883mの山城で比高は250mと堅固である。
別名は小田野山城。
最初の築城は不明だが、平安時代末期から鎌倉時代初期には安田義定の館があったともされるが、この時代の山城には疑問符?がつく。
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安田義定(やすだ よしさだ)は平安時代末期の武将で、甲斐源氏・源義清(または源清光)の子として1134年に生まれた。
甲斐国山梨郡八幡荘内の安田郷(山梨市小原)が本貫となる。
甲斐・小田野城、東麓からの登城口となる普門寺は、安田義定が建久年間(1190年〜1199年)に建立したと伝わる。
そして、麓の県道近くに「御所館」(西御所)と伝わる安田義定の屋敷があった場所もあるようだ。
すなわち、安田義定の舘は、その御所館と言う事になるだろう。
その近くには腹切地蔵尊など安田義定の伝承も残っている模様だ。
しかし、東の中牧城も同様に安田義定築城の伝承もあり、地勢的に安田義定の館は本貫である山梨県山梨市小原西の保田山・妙音寺(現在は西願寺?)が有力か?
跡部景家の登場
室町時代中期の応永23年(1416年)に甲斐守護・武田信満が上杉禅秀の乱へ荷担し討伐され多くの一族を失い、甲斐では守護不在状態となる。
そのため、室町幕府は高野山で出家していた武田信元(武田信満の弟)、次いで武田信重(甲斐源氏14代)を甲斐守護に任じた。
このとき、幕府は信濃守護・小笠原政康に武田信元らの甲斐帰国を支援させたので、甲斐守護代として補佐したのが跡部明海・跡部景家の親子である。
跡部氏は信濃守護・小笠原氏の庶流であった。
そのためか?、武田信満の子・武田信長は跡部氏と敵対し、武田信昌の時に跡部氏は専横を極めたと言う。
逸見氏、穴山氏、跡部氏ら有力国人勢力が武田信昌(甲斐源氏16代)を圧倒していた。
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しかし、1464年に跡部明海が死去すると、武田信昌(19歳)は信濃・諏訪信満の援護を受け、夕狩沢の戦い(山梨市)にて跡部景家を撃破。
負傷した跡部景家は7人の重臣らと西保の甲斐・小田野城に逃れるも、捕縛されたようで小田ノ城下で切腹したと言う。
ただし、甲斐・小田野城が跡部氏の領地だった可能性はあるが、本拠としては不明と行ったところだ。
甲斐・小野田城に登城する場合には、普門寺の墓所奥にある鹿柵を開けて山に入るとの事。
交通アクセス
甲斐・小田野城への行き方・交通アクセスだが、JR中央本線・塩山駅から山梨交通バスにて、窪平バス停下車し、普門寺まで徒歩5km(約60分)。
小田野城の場所は当方のオリジナル地図にてポイントしている。
・甲斐・琵琶城のちょこっと解説~武田一族・倉科信広
・中牧城(浄古寺城)には天守があった可能性も?~内藤信成が城主で規模もある甲斐の城跡
・安田義定館 (甲斐・小原館)の解説【甲斐源氏・安田義定とは】
・関東周辺のお城や史跡などの訪問に便利な地図
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