上野・諸城とは
上野・諸城は群馬県多野郡上野村勝山にある山城(城山)で眼下には神流川が流れている。
標高630mくらい、北側の道路からで比高は90mくらい。
道の駅「うえの」から見て西側の山が上野・諸城となる。
登城まではしなかったが、一番高いところは物見のスペースだったようで、北側の細い道路近くを主郭として使用していたともされる。
恐らくは勝山集落の領主館と言う感じであったのだろう。
諸城の城主としては、今井兼平の子孫とされる今井氏のようで、江戸時代には名主を務めたともある。
この今井兼平(いまい-かねひら)は、平安時代末期の武将で、樋口兼光の弟。
別項目の「千石墻の砦」にて少し詳しく触れておく。
日本城郭体系によると、諸城の築城は戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)としている。
その頃、武田信玄が上野に進入しているため、地侍が防衛を少し強化したのか?、もしくは占領した武田勢が少し手を加えたとも考えられる。
しかし、史料が不足しており詳しいことはまったく不明といったところだ。
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1561年、武田信玄が国峰城を攻略。
1566年には、重臣の小幡信貞に対して神流川流域の制圧を命じていますので、このとき尾附城とともに武田氏の支配下・山中衆になったと考えられる。
西毛や秩父はコメが取れないため、信州・佐久から「米」を購入していたので、十国峠・上野村は中継地点として重要であった。
江戸時代、上野村は「山中領・上山郷」と呼ばれ幕府天領となっており、乙母、川和、勝山、新羽、野栗沢、乙父、楢原の7つの郷村に区分されていた。
また、江戸幕府は十石峠の麓に「白井関」を設けている。
山中領は「さんちゅう-りょう」と読む。
山中幸盛(山中鹿之助)は、約37km離れた長野県南佐久郡南相木村の「見上城」(火燈城)で生まれたとする説もあるため、山中衆がどうしても気になってしまう。
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尾附城のついでに遠景写真だけ撮影した。
クルマは道の駅「うえの」に駐車できる。
交通アクセス
場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
国道299号は比較的交通量も少なく走行しやすいが、カーブもあるので注意願いたい。
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