滝野川城とは
滝野川城(たきのかわ-じょう)は、東京都北区滝野川にある平城(館跡)になる。
最初の築城としては、室町時代の文明年間(1469年~1487年)豊島氏の一族・滝野川氏が築いたとされる。
石神井川を利用した水運・連絡を行っていたと考えられるが、正確な城跡の場所は不明。
ただし、石神井川のほとりにある金剛寺が滝野川城跡とされている。
日本城郭大系によると本堂の西側に、昔、空堀があったようだが、現在、遺構などはない。
恐らく隣の丘の上に城を築いていたと推測される。
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豊島氏は武蔵国内に練馬城の練馬氏、板橋城の板橋氏、武蔵・平塚城の平塚氏、小具氏など多くの庶流を輩出しているため、滝野川氏もその一族であったようだ。
1476年、関東管領・山内上杉顕定の重臣・長尾景春が、古河公方と結んで「長尾景春の乱」を起こす。
このとき、武蔵国と相模国では、小磯城の越後五郎四郎、相模・小沢城の金子掃部助、溝呂木城の溝呂木正重、武蔵・小机城の矢野兵庫助などが長尾景春に味方した。
豊島一族も長尾景春に協力したようで、豊島泰経の石神井城や練馬城が江戸城の太田道灌より攻撃を受けた。
1477年、練馬城が攻撃されたあと、江古田原の戦い(江古田・沼袋原の戦い)で豊島氏は敗れ、武蔵・平塚城主である豊島泰明や板橋氏・赤塚氏などが討死。
豊島泰経は石神井城に逃げ込みむが包囲されたため、夜闇に紛れ小机城へと逃亡。
その後、小机城も落城し豊島泰経は行方不明となっている。
この過程で滝野川城も落城・廃城となったようだ。
ちなみに、平安時代末期の1180年、安房で再起した源頼朝が隅田川を渡って、石神井川の松橋に布陣したとの伝承がある。
紅葉橋の東側に松橋があり、金剛寺に案内板があるようだ。
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今回、事前調査なしの予定外訪問であったため、遠景写真のみの失礼をお許し願いたい。
交通アクセス
JR・東京メトロの王子駅から徒歩10分。
各史跡や城跡の場所などは、当方のオリジナル関東地図にて、ポイントしている。
スマホで表示して、目的地としてタップし「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとして使用可能。
・豊島清光館(豊島氏館)の解説~豊島清元の居館で豊島氏発祥の地
・石神井城とは 三宝寺と石神井城の歴史を解く
・太田道灌の解説~忠義を貫いた扇谷上杉家の名将~伊勢原・太田道灌の首塚も
・練馬城の訪問記~遊園地「としまえん」になっているかつての東京の古城
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