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国の特別史跡、日本三名城、日本100名城日本の歴史公園100選、など、豊臣秀吉が建造した大坂城(おおさかじょう)には様々な称号が与えられています。
そんな大阪城を単に散策するのではなく、歴史ある大坂城にまつわる「史跡」を巡る見学方法・観光方法として詳しくご紹介したいと存じます。
大坂城と大阪城はどっちが本当?
まず、大坂城の漢字ですが「坂」を使うのが江戸時代までの昔の表記です。
その後「坂」の漢字だと転げ落ちるなど「縁起が悪い」と言う事で明治20年頃には「大阪」と統一されるようになりました。
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そのため、現在のおおさかは「大阪」と書きますので「阪」の漢字になっており、現在においての正しい表記は「大阪城」でして、JRの駅名も「大阪城公園」となっており、城の公式サイトでも「大阪城」と表記していますが、まぁ、どちらの漢字を使用しても問題はありません。
昔は坂で今は阪と言う事をご理解頂けていいればよいでしょう。
そのため、このページでも両方の漢字を使用していますので、ご理解のほどを賜りますと幸いてず。
大坂城の別名は2つありまして錦城と金城と呼びますが、あまりよく知られていません。
金箔を貼った大きな虎と鶴が天守閣にあるなど、黄金色から「金」をふんだんに使用したと言う意味で錦城、金城という名がついたようです。
大阪城に最寄りの駅は?
大阪城へのアクセス・行き方ですが、これだけアクセス方法がたくさんある城跡は、大阪城くらいです。
大阪市営地下鉄の場合、谷町線ですと谷町4丁目駅1-B番出口、天満橋駅は3番出口。
中央線の場合には谷町4丁目駅で9番出口、森ノ宮駅1番出口か3-B番出口。
長堀鶴見緑地線は森ノ宮駅で3-B出口、大阪ビジネスパーク駅1番出口となります。
京阪電車の場合、満天橋駅、JR大阪環状線ですと大阪城公園駅か森ノ宮駅となります。
駐車場の案内は文末の方に明記したいと存じます。
大阪城の歴史
大阪城は石山本願寺の跡地に建造されました。
1580年、織田信長は石山合戦で本願寺顕如の石山本願寺を焼失させ、その後、丹羽長秀に摂津を預けます。
本能寺の変のあとには、清洲会議で池田恒興に与えられ、その後、池田家が美濃に国替えとなると、以降は、豊臣秀吉が大坂城を築き、豊臣政権の本拠地となりました。
初代の築城総奉行は黒田官兵衛(黒田孝高)でして、縄張(設計)を担当したと言います。
豊臣秀吉の死後、石田三成が関ヶ原の戦いで敗れ、徳川家康が1603年に江戸幕府を開きますが、大阪城の豊臣秀頼は摂津・河内・和泉を支配していました。
しかし、1614年、大坂冬の陣で徳川家康らの大軍に攻められ、篭城戦を行います。
この時、豊臣家は後藤又兵衛ら浪人を雇い、真田幸村は真田丸で活躍します。
戦いは和議となりましたが、惣構・三の丸・二の丸が破却されて、大坂城は内堀と本丸のみを残す「裸城」にされてしまいます。
その為、豊臣秀頼は堀の再度構築しようと試みますが、これを講和条件の違反とみなされ、4か月後の1615年に大坂夏の陣となり、大阪城は陥落しました。
現在の大阪城の石垣などの姿は、そのあと、徳川政権が改修したものとなります。
豊臣時代の地面に「かさ上げ」するような感じで、天守台なども築いたと考えられています。
大阪城内の史跡
大阪城は広いので、どの方角からでも入れますが、今回は大阪城を訪れる直前に、豊臣秀頼ゆかりの「玉造稲荷神社」に寄った関係で、大阪城の南東側「玉造口」より入ってみました。
まず、玉造口の門跡に行く前に1箇所立ち寄ります。
城中焼亡埋葬墳
まずは、大阪城公園の南東にある「大阪国際平和センター」の西側にある大阪城の城中焼亡埋葬墳です。
ちょっとした森のようになっている場所に写真の城中焼亡埋葬墳があります。
幕末の鳥羽伏見の戦いの際に、徳川慶喜が江戸に帰ってしまい、幕府軍は大坂城を新政府軍に手放すのですが、この時に拒んだ一部の幕臣が、大坂城内に火を放って自害したと言います。
それを見た新政府軍の薩摩藩と長州藩が、彼らの遺骨を埋葬したのが城中焼亡埋葬墳で、当時は武士の鑑としたそうす。
ただ、地元ではこの石碑のことを「残念さん」と呼んだそうです。
この城中焼亡埋葬墳の傍らには「淀君の霊の石碑」もあります。
このよう大阪城には豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼を産んだ淀殿に関する史跡がいくつかあります。
城中焼亡埋葬墳」の石碑の脇に「淀君の霊の石碑」がひっそりとあります。
ただ、小生が訪れた際には、根元から折れてしまったようでして、上記のような哀れな状態になっておりました。
この2つは、大阪城公園の木々の中にあり、分かりにくい場所ですので、当サイトのオリジナルGoogoleマップにてポイント地点を示しておきます。
・淀殿(淀の方、茶々)~豊臣家・我が子の為に生涯を全うした強き女性
大阪城の水堀や石垣
さて、玉造口を目指しますが、その途中、大阪城の南外堀が見えてきました。
大阪城がある大阪城公園は広いですので、公園入口から天守閣までは10分~20分くらいは歩く形となります。
この玉造口には観光バスの駐車場もあるため、多くの中国人?観光客の間をぬって歩きました。
上記は大阪城・玉造口にある石垣の巨石です。
大阪城の各門にはこのような大きな石が多数使われていますので、その財力も伺えます。
蓮如上人袈裟懸の松
玉造口から入って、梅林の西南(内堀脇)の方に行きますと「蓮如上人袈裟懸の松」があります。
蓮如(れんにょ)上人と言うのは、そうです「本願寺蓮如」と言うと分かりやすいでしょうか?
元々、大阪城は大坂石山御坊と言い石山本願寺があった場所ですからね。
ただし、現在、松は枯れてしまっていて、根っこだけが保存されています。
ほとんどの方が、こんなところ見ないで、見えてきた大阪城の天守閣を目指していますが、隠れた史跡でもあります。
蓮如上人袈裟懸も、当方オリジナルのGoogle地図にて場所を分かるようにしておきます。
上記はその松の裏側にある、蓮如上人の筆跡の「六字名号の碑」です。
上記は大阪城の東外堀です。
豊臣時代の大阪城破却されましたので、今、残っているほとんどは徳川時代の大阪城となります。
二の丸へ入って行くとやがて左手に豊国神社が見えてきます。
豊國神社
豊國神社(ほうこくじんじゃ)は豊臣秀吉を祀った神社となっています。
コース的には豊國神社を見てから、大阪城の天守に向かうと良いです。
大阪城にある豊國神社(豊国神社)は、明治天皇が建立の御沙汰を出し、明治12年に大阪府北区中之島に創建されましたが、昭和36年になって現在の大阪城・二の丸に遷座しています。
太平洋戦争中に鉄材供出された豊臣秀吉像が2007年4月17日に復元されたものとなります。
大阪城の観光と共に、多くの外国人観光客も訪れており、出世開運の神様として人気が高いです。
社殿の右奥には「秀石庭」と言う庭園もあります。
石山本願寺推定地
少し前でも触れましたが、大阪城がある場所は、石山本願寺(いしやまほんがんじ)があった場所でした。
本願寺顕如が織田信長に抵抗して長年交戦があった場所でもあります。
大阪城の本丸へ入る「桜門」が見えてきますが、ちょっと素通りして、堀とは逆側を見ていると、石山本願寺跡の石碑があります。
石山本願寺推定地の石碑は場所がわかりにくいので、当方オリジナルのGoogle地図でもシルシしておきます。
大阪城・大手門
上記は大阪城の大手門で、外側から撮影したものです。
大手門と言うのは正式な入口と言う事になります。
大手櫓門(大手門)を入ると虎口と言う防御形式になっています。
真田幸村(真田信繁)もココから出入りしたのでしょうかね?
上記は、大手門控え柱にある「謎の柱継ぎ」です。
どうして、このように継ぎ足したような建築になっているのか、良くわかっていないとの事です。
隣の西ノ丸庭園に入るのには拝観料200円が必要ですが、見どころとしては焔硝蔵があります。
と言う事で、大阪城・桜門に戻りますが、途中、謎の空堀を撮影します。
謎の空堀
大阪城の謎の空堀です。
大阪城は水をふんだんに取り入れた水堀が多いのですが、天守に近い重要な堀にも関わらず、ここは空堀(みずが入っていない堀)になっています。
なんで、本丸の手前なのに空堀になっているのか?よくわかっていなそうです。
そして、いよいよ、本丸へと入ります。
桜門の巨石と蛸石
桜門の巨石です。
興味が無い方は、素通りなのですが、大阪城でしかみられないような規模の石垣ともうひとつ面白い模様があります。
桜門を入りますと、見えてくるのがとても大きな巨石です。
このように大きな石を用いるのには、お金だけでなく労働力もたくさん使う事から、権力の象徴でもあるのですが、大阪城はほんと大きい石です。
下記は蛸石(たこいし)です。
「蛸石」と呼ばれている理由であるタコに似た模様、わかりますか?
現地で見た時は「あっ、タコだ」と分かったのですが、今、改めて写真を見ると全くわからない自分がいます。
もひとつオマケに、桜門を入ったところの「トイレ」から撮影した石垣です。
大変不謹慎ではございますが、ガラス越しではなく、ダイレクトに目の前に400年前の城の石垣を眺めながら、トイレができると言うのは世界で、ここだけなのではないでしょうか?
失礼致しました・・。
大阪城の天守
気を取り直しまして、トイレを出ますと、すでにここは大阪城の本丸で、大きな広場の先には天守閣が見えます。
お疲れの時は、どうぞペンチで一休みさりながら、天守をボーッと眺めるのも良さそうです。
望遠で撮影すると上記のような感じです。
ここまで来ていながらと、いつもあとで後悔するのですが、今回も「金蔵」を撮影するのを失念しました。
これで4回忘れていますので、それだけ大阪城の天守に圧倒されていると言えるのですが、次回こそは、金蔵行きたいと思います。
豊臣時代の大阪城と、徳川時代の大阪城の解説パネルがありました。
参考になりますね。
良く見ると、入場口も混雑していませんでしたので、ここはチャンスとすかさず大阪城・天守に入りました。
多くの外国人ツアー客は、入場料を嫌うのか、時間が無いのか、天守閣の中までは入らないようです。
もっとも、中国の方は自国の歴史にプライドをお持ちでしょうから、再建天守や日本の歴史にはあまり興味ないご様子で、城をバックにと言うよりは、紅葉をバックに撮影されている姿が多数でした。
有料拝観の入場口を入ったところで、パチリと一枚。
焦って入ったせいか、天守脇にある1625年建造の「金蔵」をすっかり忘れているのに気がついたのは、自宅に帰ってからです。(^^;)
この記事をUPした翌年にも大阪城を訪れたのですが、その際にも金蔵、忘れてしまいました。
どうやら、私は「お金」には運がないようです。(^_^;)
でも、1626年に作られた金明水井戸屋形は撮影できました。
豊臣秀吉が水の毒気をぬき、良い水を得ようと、黄金の延べ板を、井戸に沈めたと伝わります。
しかし、昭和34年の発掘調査では、発見できなかったそうです。
また、この辺りの石垣には、なんと鉄砲狭間もついているのです。
石垣に狭間が施されているのは、他の城でもそんなに多くはありません。
手間がかかっていますね。
そして、天守の入口手前には、大砲(大筒)があります。
上記は大阪城・復興天守への入口となり、すぐにエレベーターへと通されます。
混雑していると、ここでエレベーターへの順番待ちとなりますが、この日、エレベーターには小生を含めて2名しか乗っていないと言う状況でした。
でも、天守閣見学したあと、出て行く際には30名くらい並んでおられました。
大阪城からの展望
大坂城の内部は資料館などになっており、色々な史料の展示も多数あります。
展示物の多くは撮影禁止で撮影して良いフロアと、ダメなフロアがありますので、ここでは、大阪城からの展望をご紹介いたします。
国宝・大山城の天守に登った際に、あまりにもたくさんの人の重さで、天守最上階の外回廊が壊れるのではと恐怖感を感じてから、実は高いところが苦手になってしまっているのですが、大阪城・天守も結構高いです。
このように、周りの景色はビル群となっていて、昔をしのぶようなものはありませんが、豊臣秀吉もここまで街が発展するとは思っていなかったことでしょう。
いや~、大阪城公園の紅葉もキレイでした。
大阪城の天守ではお土産物も販売されています。
さて、大阪城の天守閣を出て、先を急ぎます。
残念石
大阪城は、大坂の陣で陥落するなど、残念なことも多いのですが、下記は残念石(ざんねんいし)です。
石垣を作る際の運搬途中に落ちてしまった石は、落城に繋がると言う事で、使用されなかったので、あちこちにこのような「残念なお石さま」があります。
淡路島から石を運んだとも言いますので、せっかくここまでやってきて、使われないとは、本当に残念な事です。
上記は本丸石垣の鉄砲狭間からの展望です。
そして、北へと進み、山里曲輪へ向かいしました。
途中、見上げますと大阪城の天守閣が良く見えます。
ちなみに、大阪城の友好城郭は上田城です。
上記は山里曲輪の上から撮影した大阪城です。
内堀はこんな感じでした。
山里曲輪石垣の弾痕
山里曲輪の石垣には弾痕があります。
太平洋戦争中、大阪城には中部軍管区司令部・第4師団司令部・大阪砲兵工廠・歩兵第8連隊などが入っていましたので、当然、アメリカ軍の攻撃対象でした。
あと、山里曲輪は豊臣秀頼と淀殿が自刃した場所でもあります。
豊臣秀頼・淀殿自害の地の碑
大坂夏の陣の際に、豊臣秀頼や淀殿が自害したとされる地に石碑があります。
大阪城公園北側の極楽橋から入り、天守閣に行く直前(刻印石広場)の階段の脇(左手、東側)です。
淀君並殉死者三十二名忠霊塔
淀殿らと共に殉死した方々の慰霊塔です。
真田幸村の嫡男・真田大助の名前も入っています。
32名も殉死したなんて驚きですね。
山里曲輪にて命をたったのは、大野治長、大野治徳、速水甲斐守時之、速水出来丸、毛利勝永、毛利長門、高橋半三郎、高橋十三郎、津川親行、竹田永翁、堀対馬守、武田左吉、森島長意、伊藤武蔵守、土肥勝三郎、真田大助、萩野道喜入道(氏家行広)、寺尾勝右衛門、和期の局、大蔵卿の局、宮内卿の局、右京大夫局、玉の局、饗庭局です。
自決の碑から反対側の場所にあり、ちょっとわかりにくいです。
刻印石広場を右手(西側)にある石垣に向かって行くとわかりますが、場所が分からない場合には、当サイトのオリジナルGoogoleマップをご覧頂けますと幸いです。
・淀殿(淀の方、茶々)~豊臣家・我が子の為に生涯を全うした強き女性
そのまま極楽口を出て振り返り、大阪城を撮影しました。
この辺りからの大阪城も素晴らしい眺めです。
京橋口の中ほどには、中国と日本の平和を願う石碑がありました。
尖閣諸島の問題にしろ、本当に残念でなりませんので、小生も平和を願いつつ撮影させて頂きました。
下記は京橋口の巨石です。
これまで多くの城郭を見て参りましたが、ここまで多数の巨石があると言う大阪城は本当にスゴイです。
そして、京橋口を出て大阪城の散策を終えました。
大坂城は広いです。
単に天守閣に登って帰るだけでしたら、天守閣のエレベーター待ち時間がなければ60分もあれば良いですが、大阪城の隠された史跡なども丁寧に周りますと、1時間では足りません。
今回、私は約2時間の観光所要時間となりましたが、天守閣内部の史料などを丁寧に見る場合には、プラス30分くらいあった方が良いかとは存じます。
2時間でご案内致しましたが、ご家族などの場合には合計で3時間ほどみて頂けますと幸いです。
と言う事で、大阪城の観光所要時間は2時間~3時間といったところです。
上記のオマケ写真は「生國魂神社お旅所跡」です。大手門の外側を南に行ったところにあります。
かつて、生國魂神社はこの辺りにあったのですが、大阪城の築城の際に移転させられました。
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以上、駆け足ですが大阪城の史跡観光コースをご紹介させて頂きました。
時間に余裕があれば、付近にある真田幸村などの史跡や、細川ガラシャなどもあわせてご見学なさってみてください。
下記の地図では、真田丸関連の見どころ観光スポットをまとめて記載してありますので、大坂をご訪問する際の参考になさって頂けますと幸いです。
食事がとれる場所は、大阪城内ですと、豊國神社の西側に「茶屋」があります。
茶屋と申しましても、観光地にありがちな軽食の売店と言う感じです。
<注釈> もともと不法に設置されていたようで、脱税の疑いで廃業となりました。
なお、夏には大阪城ホールの近くに「大阪城ウォーターパーク」もできますので、水着持参で遊びたいところです。
有料駐車場
大阪城の大阪城の有料駐車場入口は下記です。
観光バスも大坂城は止められます。
地図の縮尺はご自由に変えてご確認願います。
また、大阪城近くには下記のような戦国時代史跡観光スポットもございますので、時間が許せばセットでどうぞ。
・真田丸の歩き方~真田丸の見どころをチェックできる観光ガイド
・越中井(細川ガラシャ)
・真田丸(真田幸村)
・玉造稲荷神社(豊臣秀頼)
・姫路城 駐車場入口など見学クチコミ情報
・大阪の真田丸関連史跡めぐりの歩き方に役立つ観光スポット一覧リスト
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