仁田館とは
仁田館(にった-やかた)は、静岡県田方郡函南町仁田にある館跡(平城)になり、仁田館遺跡とも言います。
吾妻鑑にある仁田忠常(仁田四郎忠常)、仁田忠正(仁田五郎忠正)、仁田忠時(仁田六郎忠時)ら兄弟の館跡であったと伝わり、現在もご子孫の仁田さんがお住まいになっています。
<注釈> 吾妻鑑では、だいたい新田忠常と記載されている。
東側は、来光川が天然の堀となっており、西にある慶音寺との間に、土塁と堀も確認できました。
現在、来光川は、まっすぐに伸びていますが、昔は蛇行していたようでして、井戸などは現在の河川にあったようです。
なお、館跡に関しては、私有地のため、隣の慶音寺だけの散策に留めさせて頂いております。
仁田忠常兄弟の墓も、民有地内であることと、新型コロナ期間であるため、お邪魔しての撮影は自粛致しております。
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仁田次郎忠俊と仁田四郎忠常は、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際から味方しました。
鎌倉幕府が開かれると、1187年1月、仁田忠常は一時、危篤状態になりますが、このとき、源頼朝が自ら、病気見舞いをしています。
源平合戦では、源範頼の軍勢に加わって活躍し、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・比企朝宗・比企能員らとともに感状を受けています。
1189年、奥州・藤原氏への攻撃でも戦功を挙げています。
そして、建久4年(1193年)、曾我兄弟の仇討ちの際には、兄・曾我祐成を討ち取りました。
源頼朝亡きあとは、鎌倉幕府2代将軍・源頼家に仕えます。
しかし、1203年、比企氏の乱では、北条時政の命を受けて、比企能員を暗殺しましたが、その帰り、加藤景廉によって殺害されています。
すぐ上流にあたる畠郷(函南町畑毛)には、源頼朝から新田信綱(小野寺通綱の子)が所領を与えられており、一族になった可能性(新田氏を継いだ?)もありますが、確証はなく、引き続き検討が必要です。
交通アクセス
交通アクセス・行き方ですが、伊豆箱根鉄道・駿豆線の終点である仁田駅から、約850m、徒歩12分ほどになります。
仁田館の駐車場ですが、慶音寺の山門を入って右側に、駐車スペースがありました。
今回は、熱中症防止のため、ジュースを買いがてら、道路の反対側にあるドラックストアの駐車場を拝借しています。
見学所要時間は10分ほどです。
・仁田忠常の解説【鎌倉殿の13人】北条氏に味方するも
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・石橋山古戦場(石橋山の戦い)【源頼朝挙兵】参加武将など合戦経緯と訪問方法(駐車場)
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