出雲・三笠山城は、島根県安来市広瀬町広瀬八幡町にある山城です。
標高236mの三笠山に築かれており、比高は200m程になります。
飯梨川を挟んだ東側には、尼子氏の本拠地となる月山富田城があり、駒返峠および南方をおさえる要所でした。
富田八幡宮の裏山にあり、頂上の本三笠を中心に四つの峰があるうち、三つが、重なり合った「三つの笠」に見えるため、三笠山と名付けられたと言います。
なお、牛尾幸清の出雲・三笠城(牛尾城)も、 三笠山城と書く場合がありますので、混同しないように注意が必要となります。
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最初の築城は不明ですが、明徳2年(1391年)に、伯耆守護の山名満幸(山名播磨守満幸)が、後円融上皇の御領であった出雲・仙洞領の「横田荘」を横領したとあります。
そして、代官となった石原宗政が築いたのが、出雲・三笠山城と伝わります。
その後、室町幕府3代将軍・足利義満は、当時1ヵ国の守護と大勢力になっていた山名一族を抑えるため,山名満幸を丹波に追放します。
そのため「明徳の乱」となり、山名氏の勢力は減退し、三笠山城は破却されたとされます。
戦国時代になると、西村治右衛門が出雲・三笠山城に入っており、尼子十砦(あまごじっさい)のひとつになりました。
第1次月山冨田城の戦いでは、毛利元就が本陣を置いた場所でもありました。
山中鹿之助は、三笠山にかかる三日月に向かって「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈ったと伝わる、月見の名所です。
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出雲・三笠山城へ登城する場合、八幡宮裏手の宮尾から、山道が伸びているようです。
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