東郷槇山城(東郷城・槇山城)は、福井県福井市栃泉町にある標高122mの城山にある山城で、比高は100mとなります。
伝承では、黒丸朝倉氏の3代・朝倉氏景の次男である朝倉正景が、一条家の荘園であった東郷庄を預けられます。
この時、東郷下総守と名乗り、応永年間(1394年~1428年)に、東郷城を築城したさされています。
文明三年(1471年)頃に、朝倉氏が一乗谷へ本拠を移転したからは、その支城として大きな役割を担うようになりました。
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尾根続きの御茸山まで、大規模な4か所の堀切があり、裏には一乗谷を控えています。
また、東郷城址の周辺には、篠尾館・高尾館・前波館や成願寺城など、朝倉家関係の拠点が点在します。
朝倉氏が滅亡したあとは、柴田勝家が北ノ庄城を築いて越前を治めます。
しかし、天正11年(1583年)に賤ケ岳の戦いに敗れたあとは、丹羽長秀が東郷槇山城主となっています。
家臣が佐々成政に内応したとして、あとを継いだ丹羽長重は減封され、1584年からは、織田信長に小姓時代から仕えたていた長谷川秀一が東郷槇山城にて15万石を領しました。
この時、恐らく槇山城は大きく改修されたようで、山頂にある主郭は天守閣跡の城台、二ノ丸、千畳敷などがあります。
長谷川秀一は、朝鮮攻めにて1594年に陣没したため、丹羽長昌が5万石にて復帰して槇山城主となっています。
しかし、丹羽長昌は、関が原の戦いで西軍に協力したため、改易・領地没収となり、以後は廃城となりました。
アクセス・行き方ですが、槇山の西側から、クルマで二の丸まで登ることができます。
・丹羽長秀~織田信長と豊臣秀吉から厚い信頼を受けた重臣
・北ノ庄城(北の庄城)~北陸支配の柴田勝家とお市の方の居城
・長谷川秀一~徳川家の一行を熱田まで逃がした織田家の奉行
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