津軽藩シャリ陣屋跡は、北海道斜里郡斜里町本町にある陣屋跡となります。
江戸時代の鎖国政策のなか、1804年に、ロシア使節のニコライ・レザノフが長崎に来航してからは、ロシア海軍が樺太や北海道の漁村で略奪を行うなどし、実力で通商を図ろうとします。
これに対処するため江戸幕府は、1807年に、蝦夷地を直轄地として、松前藩も陸奥国伊達郡梁川に9000石で移封させています。
このように、蝦夷地での権限を幕府のものとし、南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵となり、沿岸警備を厳重にしました。
また、会津藩も樺太出兵を願い出て樺太に陣屋を構えています。
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と言う事で、津軽藩(弘前藩)からは、1807年5月28日に約100名の藩士が青森から船で、6月4日に箱館(函館)に上陸しました。
当初向かったのは北海道の最北端である宗谷岬で7月9日に到着しました。
当時、200名ほどの人口だった宗谷に100名が住める長屋を急ぎ建設し、宗谷海峡の監視をしました。
しかし、幕府から斜里(しゃり)の警備にと転進を命じられ、先行の30名が陸路で南下して斜里に到着。
その後、残りの津軽藩士も到着し、陣屋3棟などを建てました。
それが、津軽藩士シャリ陣屋と言う事になります。
陣屋は砂丘の上に長屋が3棟のほか、倉庫・剣術稽古所・弁天堂・遠見番所で構成されていたそうです。
しかし、急ごしらえであったため、隙間風がすごく冬は悩まされ、8月28日(旧暦)初雪が降ると、10月には最初の病人が発生し、松前から酒や薬を調達しています。
米や味噌などの食料は豊富だったようですが、北国の経験したことも無い寒さに悩まされ、海は流氷で魚を採取することもできず、新鮮な食料に乏しい生活を強いられます。
そのため、ビタミン不足や脚気による浮腫病となり、11月25日に最初の死者が出ました。
その後は数日にひとり亡くなる有り様で、炊事や薪集めを行う下人も倒れ、症状が軽いものが身分関係なく、病人の看病や雑務などを行うようになったと言います。
長く住むアイヌ人も、夏は魚介類が獲れる斜里にいても、冬は厳しいところであるため、風が穏やかな内陸部にて越冬していたと言います。
1808年4月に流氷が去って、ようやく船も通れるようになり、6月に450石積みの交代船・千歳丸が現れます。
そして、陣屋に残っていた者は米や武器類をまとめて撤収し帰路につきましたが、乗船した津軽藩士は17名だけでした。
死者は72名で木製の墓標が残されたと言います。
帰路についた一行は7月2日に利尻島に上陸して、7カ月ぶりに新鮮な魚を口にしたと言います。
その後、再び出航しますが暴風雨に遭い、石狩川から丸木舟で千歳に入り、白老・室蘭・長万部、そして8月1日に箱館に到着しました。
弘前城下に戻ったのは8月15日です。
大量の死は、弘前藩(津軽藩)の恥とされ、公にはされませんでした。
しかし、生存者のひとり齊藤勝利の残した「松前詰合日記」が1954年に発見され、はじめて津軽藩士の悲劇が明らかになったのです。
陣屋跡は「松前詰合日記」から推定した場所となります。
現在「津軽藩士殉難事件」として知られているこの悲劇を伝えるため、町民公園の公園内の真ん中付近には津軽藩士殉難慰霊の碑も設置されています。
江戸幕府は幕末の1859年にも、東北六藩に蝦夷地の警備を命令。
会津藩は本営陣屋を標津(しべつ)に設置して、斜里には出張陣屋を配置し、本格的な蝦夷地経営と開拓に乗り出しましたが、財政的な理由もあり成果を上げずに明治維新を迎えています。
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津軽藩士シャリ陣屋がある場所ですが、行き方や地図が間違っている書物もあります。
当方のオリジナル北海道マップでは正確な場所を示していますので、ご参考頂けますと幸いです。
津軽藩士殉難慰霊の碑がある町民公園を訪問する場合には、斜里町立知床博物館の無料駐車場が便利です。
博物館前の道路の反対側に駐車場があります。
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