能登・崎山城(さきやま-じょう)は石川県鳳珠郡能登町にある丘城です。
別名は天呑城と言い、宇出津に面しています。
いまでこそ、麓は宇出津の港町になっていますが、昔は、岬として海に面していた海城であったと推測致します。
対岸の遠島山公園には、棚木城がありました。
ともに、能登水軍も有していたものと推測致します。
スポンサーリンク
この能登・崎山城もまた、九州・大仙市の大隅・崎山城にあり、三重県にもあるなど、他にも同じ名前の城があります。
最初の築城は不明ですが、戦国時代には、能登守護の畠山氏にて重臣を務めた三宅氏の一族がいたとのことです。
能登・畠山氏の重臣で畠山七人衆のひとりに三宅総広がいます。
三宅総広(みやけ-ふさひろ)は、三宅俊長の子で、畠山家では温井総貞とともに権力を持っていました。
そして、1553年、温井氏と遊佐氏の権力争いて温井氏に味方して勝利しています。
しかし、実権を握っていた温井総貞を畠山義綱が暗殺すると1555年から弘治の内乱(こうじのないらん)となりました。
そして、温井続宗に味方した三宅氏としては三宅綱賢、三宅綱久、三宅俊景、三宅慶甫などがいます。
鎮圧側の畠山義綱の軍勢としては、三宅続長、三宅宗隆がいますので、さすがに三宅家も分かれたようです。
温井続宗・三宅総広らが討死すると、三宅一族の三宅綱賢も畠山義綱に寝返りました。
三宅家の跡目は、天堂城主・温井続宗の子・三宅長盛が、三宅総広の養子という形で継承し、兄の温井景隆とともに権勢を誇りました。
そんな、能登・三宅家の一族が、能登・崎山城主だった訳ですが、大永年間(1521年~1528年)には庶流の三宅小三郎と言う名が見受けられます。
永禄年間(1558年~1570年)には、三宅続長(三宅小三郎続長)、その後、天正年間には猛将とされる三宅宗隆(三宅小三郎宗隆)が城主だった模様です。
三宅宗隆(みやけ-むねたか)は、1577年に上杉謙信が能登に侵攻すると、上杉家に臣従しました。
しかし、1579年、上杉謙信が死去すると、七尾城を攻略して、一時、能登を支配しています。
スポンサーリンク
その後、七尾城は織田勢の攻撃を受けたため、越後へ逃亡しました。
1582年、本能寺の変にて織田信長が横死すると能登に戻って、石動山門徒衆と再起を図りましたが、佐久間盛政の軍勢に敗北し、捕らえられて自害しました。
今回は、棚木城を撮影するついでに、麓から撮影するにとどめました。
能登・崎山城の場所ですが、当方のオリジナル北陸地図にて、わかるように印しています。
・棚木城 能登の宇出津にある海城
・能登・越坂砦
・天堂城 温井景隆と埋蔵金伝説もある能登の山城
・上杉謙信の解説~越後の龍と呼ばれた長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
・七尾城 畠山義統と畠山義総 上杉謙信との七尾城の戦い
この記事へのコメントはありません。