岩手県

陸奥・水沢城 白石宗直と水沢要害

陸奥・水沢城

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陸奥・水沢城(みずさわ-じょう)は、岩手県奥州市水沢にある平城で、水沢段丘の微高地上にあります。
別名は臥牛城、大休城、水沢要害とも書きます。

最初の築城年代・築城者は不明ですが、源頼義(みなもと-の-よりよし)が、平安時代の1051年に陸奥守と鎮守府将軍を任じられています。
この時、多賀城に入ったところで、俘囚長の安倍頼時(あべ-の-よりとき)が、恭順しました。
そのころに、陸奥・水沢城に城柵を設置した可能性がありますが、根拠が乏しいです。


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その後、水沢城の様子は伝わっておりませんが、奥州・葛西氏の所領となっていたようで、南北朝時代には蜂谷義胤(八谷義胤)が知行していたともされます。
1408年になってようやく、室町幕府の将軍・足利義持の衛士である佐々木繁綱(佐々木将監繁綱)が、葛西氏を頼って奥州に下った際に、陸奥・水沢城を与えられたようです。

陸奥・水沢城

1523年には、佐々木信義と言う武将が葛西氏に従って出陣した際に討死しています。
1579年、陸奥・岩ヶ崎城の富沢直綱が葛西家に謀反を起こすと、鎮圧軍に佐々木実綱も加わり、1588年にも米ヶ崎城の浜田安房守広綱の鎮圧に協力しました。

1590年、小田原攻めを行った豊臣秀吉は、奥州仕置で江刺氏の主家・葛西氏を所領没収にし、佐々木氏も没落しました。
この時、葛西大崎領は木村吉清に与えられ、家臣の松田源太郎左衛門が陸奥・水沢城に入りました。
しかし、奥州仕置に反発する葛西大崎一揆が勃発し、陸奥・大林城の折居明久などの一揆勢に水沢城も攻撃を受けたようですが、詳細は不明です。

陸奥・水沢城

その後、伊達政宗の領地となり、陸奥・水沢城には白石宗実が入って、城下町の整備が行われました。
白石宗実(しろいし-むねざね)は、白石城を本拠にした勢力でしたが、伊達氏に臣従すると宮森城主を務めていました。
15000石で水沢に移ることになりましたが、歴戦練磨の武将です。
その白石宗実が1599年に死去すると、男子がいなかったため娘婿・梁川宗直(伊達稙宗の子・梁川宗清の長男)が白石氏を継いでいます。
白石宗直(しろいし-むねなお)は、1600年、関ヶ原の戦いの際に、伊達政宗の密命を受けて、旧領復帰を目指した岩崎の乱の和賀忠親を支援しました。
しかし、和賀忠親らは南部勢の反撃で敗れます。
また、この伊達政宗の野望が、徳川家康の耳に入ったため、この企ては白石宗直が独断で行ったと言う事にされました。
その責任を取る形で、白石宗直は登米・寺池城(登米要害)へと移り登米伊達家となっています。
代わりに陸奥・水沢城には、柴田宗義(2000石)、柴田宗朝(柴田外記宗朝)、そして、石母田宗頼(いしもだ-むねより、4000石)が入り、城下町が整備されていきました。

陸奥・水沢城

1615年の一国一城令では、水沢要害に名称が変更されて存続しています。
1629年、留守宗利(るす-むねとし)が、16135石にて水沢要害に入封すると水沢伊達家となり、寺社を水沢に移転させたり、水沢城下の整備に努め、明治維新まで留守氏が続きました。

町割りは「小路」に重臣や中下級家臣の居住区を置き、「丁」は足軽、下級家臣の居住区としました。
柳町以下6町をその外周にもうけると、上水道・下水道を完備した地区もあり、現在も道路の下から木樋が発掘されることがあるそうです。


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武家屋敷も、後藤新平旧宅、安倍家、内田家、八幡家が現存するほか、余目氏邸跡などもありますので、時間があればゆっくりと散策したいところです。

なお、三重県にも水沢城がありますので、混同しないよう注意が必要です。
奥州地区合同庁舎の東側中央に水沢城跡の看板があり、三の丸曲輪にあった姥杉が現存していますが、その他の遺構はほとんど残っていません。

陸奥・衣川柵(並木屋敷) 安倍頼時と安倍貞任
当方オリジナルの東北地図


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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