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新府城とは
新府城(しんぷじょう)は、山梨県韮崎市中田町にある平山城で、標高は522m、比高は72mになっています。
続日本100名城のほか、国の史跡に指定されています。
戦国時代に、武田勝頼が予想される織田信長の侵攻に備えて、1581年2月15日から築城を開始しました。
穴山信君(穴山梅雪)が築城を提案し、普請をしたのは真田昌幸とされています。
その補佐として、原貞胤(原隼人祐貞胤)が担当しました。
新府城へは麓の県道から、本丸にある藤武神社への直登となる階段があります。
しかし、今回は東の大手側からの登山道(一般車は通行止の車道)からグルっと登ってみました。
途中、大手からの道が合流します。
坂も緩くて歩きやすいです。
土塁の跡も残っていました。
そうそう、
上記は西三の丸です。これだけでも結構な広さがあります。
本丸目指して登って行きますが、息が切れるような事はありませんでした。
曲輪も良く残っていますね。
しかし、良く考えられていますし、とても広い連郭式平山城です。
まだ、すべて完成していなかったとされますが、1581年12月24日に、武田勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城に移り、実質、本拠地を韮崎に変えました。
こんな感じの造りだったようです。
非常に大規模な城でして、武田家の甲州流築城術の集大成と言えるでしょう。
二の丸とも土塁で隔たれてあります。
新府城の本丸に到着しました。
トイレも比較的新しい水洗トイレがありましたよ。
完璧な平地ではありませんが、しかし、とても広い本丸です。
ここに、武田勝頼が数か月いただけでなく、のちに天正壬午の乱の際には徳川家康もここで籠城しました。
上記は、本丸を約300度くらいのパノラマで撮影してみました。
新府城の出城となる能見城も望めました。
上記は本丸にある巨石です。
長篠の戦いの供養碑です。
武田勝頼を弔う石碑や、長篠の戦いで討死にした家臣らの墓碑がありました。
五味高重(五味貞氏)・小山田昌輝・真田昌輝・真田信綱・春日信澄(高坂昌澄)・山県昌景・馬場信春(馬場信房)・武田信実・原昌胤・内藤昌秀(内藤昌豊)・香坂助宣(高坂助宣)・土屋昌続(土屋昌次)・甘利信康・横田康景ですね。
上記は武田勝頼公の霊社です。
古い祠もありました。
春からは「紫外線対策」と「虫除け」があった方が良いと思います。
本丸には藤武神社があります。
藤武神社は新府城の守備神です。
1582年3月3日、武田勝頼は新府城に火を放って、小山田信茂の岩殿城を目指して落ち延びます。
上記は、県道から本丸への直登の階段です。
結構な階段でして、階段脇には「乙女坂」なる斜め道がありますが、いずれもきつそうですので、前述の通り東側の整備車両道から登るとラクラクですし、馬出なども楽しめます。
さて、下山しましたら、そのあと西側の遺構を見に行きました。
上記は駐車場からも近い「東出溝」です。
堀に突き出た感じになっています。
その堀ですが、一部は現在でも水をたたえています。
西側は堀によって遮断することで防御になっています。
そして、上記は西出溝です。
西側はこんな感じになっていたのですね。
防御面ではもっとも配慮した模様です。
七里岩台地上の端である乾門(搦め手)に繋がる土橋です。
そして、乾門跡ですね。
この方角には小型車であれば、県道から進入して駐車するスペースも整備されています。
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以上、見学所要時間は50分でしたが、井戸跡なども見るのであれば、プラスアルファの時間が必要です。
新府城への行き方
新府城へのアクセス・行き方ですが、電車の場合JR中央本線の各駅停車で「新府」駅下車。新府城の麓まで徒歩5分です。
もしくは、韮崎駅で下車して、左手のニコリ(韮崎市民交流センター)にて、レンタサイクル(電動アシストあり)を借りるのも良いです。
車の場合には、下記の地図ポイント地点が無料の大きな駐車がある場所です。
ジュースの自動販売機がありますが、トイレは本丸に登らないとありません。
続日本100名城のスタンプがある場所は、韮崎駅から徒歩20分の韮崎市民俗資料館(無料)となります。
使い勝手は悪く、休館日や時間外には押印することができないようです。
その民俗資料館から、新府城まで歩くと、徒歩30分となります。
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