常陸・久慈城(くじ-じょう)は、茨城県日立市久慈町にある標高21m、比高20mほどの台地先端部を利用した平山城です。
茂宮川の河口部にあり、現在は日立港も隣接しているとおりでして、かつては海に面した海城でもありました。
そのため、佐竹氏の佐竹水軍が少なからず存在していたのではと推測されます。
ただし、佐竹氏が海運をしたり、水軍が必要であったとは考えにくい部分もありますので、常陸・久慈城は見張り番所のような役割だったのかも知れません。
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最初の築城は不明ですが、戦国時代には、宇佐美三九郎と言う城主名が確認でき、1562年に陸奥・小高城主である相馬盛胤の攻撃を受けました。
このとき、まだ未完成であったため落城したと言いますが、そもそも、相馬氏がココまで遠征に来たことじたいが信憑性に欠け、南北朝時代のような気も致します。
また、その後は、もちろん佐竹氏の支配下となっており、> 慶長年間(1596年~1615年)には佐竹北家第5代当主である佐竹義憲(北義憲)が常陸・久慈城に入っていました。
佐竹義憲(北義憲)は岩城氏の家政を執行し、検地も担当しています。
なお、佐竹氏の秋田転封に従ったため、常陸・久慈城は廃城になった模様です。
久慈といえば陸奥・久慈城のほうを連想しがちですので、混同しないよう注意が必要です。
茂宮川の脇にある老人ホームの右から舟戸山共同墓地に入っていく道路があり、登り切ったところの墓地駐車場も利用できるようです。
今回は、予定外の訪問であったため、下からの撮影に留めました。
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さて、城跡と言いますと、一部が墓地になっていると言う事が多いですが、なんだか、最近は、その墓地に入るのを好まなくなってきたと申しましょうか、御霊に対して失礼だと感じるようになっています。
そのため、むやみに墓地がある城跡へ足を踏み入れるのを、自粛しています。
しかし、茨城県の北茨城は、わき道から幹線道路に出る際の「信号」待ち・・。
長いです。(^-^)
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