舞鶴館(まいづるだて)、大平城(たいへいじょう)、秋田県秋田市大平目長崎にある平山城で、太平目長崎舞鶴館とも書く場合があります。
太平郷は、その昔、秋田郡としては最大の石高であり、太平郷を二分して、惣領家の大江氏と、庶流である一部氏(いちぶし)が支配していたようです。
やがて、安東氏に従っていますが、河辺の豊島氏らと領主としては小さいながらも独立していた模様です。
しかし、安東愛季(あんどう-ちかすえ)が台頭すると、一部勝景(いちぶ-かつかげ)が惣領家の大江氏を凌ぐ勢力となり、太平郷の実権を握ったと文献にあるようです。
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この一部式部少輔勝景(1516年~1588年)は、太平郷を惣領家の一族である永井広治ととも領有しました。
1582年、大沢山城の戦いにて、由利十二衆とともに安東愛季の援軍として駆けつけ、大宝寺義氏(武藤義氏)と戦い戦功を挙げています。
感状を与えられ、のち太平氏を称したともされます。
このように勇猛果敢だったようです、1587年に安東愛季の病没すると、以後は、豊島城主・安東通季に従いました。
安東通季は、出羽・脇本城主である秋田実季に反発します。
1588年、船越水道の戦いにて、永井広治(大江広治)と一緒に、秋田実季勢として奮戦しましたが、一部勝景は討死しました。
跡を継いだのは一部景家(いちぶ-かげいえ)で、秋田実季の家臣・中津川駿河守に仕えたそうですが、この中津川駿河守と言う武将に関しては、よくわかりません。
1600年、関ケ原の戦いあとには、秋田実季の転封に同行しておらず、角館城に入った佐竹義宣の家臣・梅津政景に仕えたと言います。
一部勝景の次男である一部景国(いちぶ-かげくに)は、1596年から秋田実季に仕えており100石となっています。
なお、舞鶴館じたては、大江氏の一族になる永井広治(ながい-ひろはる)の居館だったようです。
しかし、前述したとおり、一部勝景と一緒に奮戦した湊合戦にて、永井広治は討死したとも行方不明になったともされています。
以後、舞鶴館は安東家の所領になり、佐竹義宣が久保田城を築城開始したころには、廃城になったと推測できます。
なお、舞鶴館(大平城)跡ですが、全体的に遺構はあまり残っていないようです。
大平郵便局の看板脇近くが登城口と言う事で、当方のオリジナル東北地図にてわかるようにポイントしています。
細長い本丸は、耕作地になっているようです。
駐車スペースが見当たらず、登城は断念し、久保田城を目指しました。
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