備前・天神山城(てんじんやまじょう)は、岡山県和気郡和気町田土にある連郭式山城です。
標高は338m、比高310mと結構な山城で、西は吉井川の流れに守られている堅固な構えです。
備前では大規模な城郭で、曲輪、土塁、石垣、空堀、侍屋敷跡などの遺構があると言います。
最初に築城したのは、戦国時代の1551年、浦上宗景とされます。
ただし、もとは室町時代より前に日笠青山城の出城として日笠氏が築城したのがはじまりで、その部分は太鼓の丸城(旧天神山城)となるようです。
この小さい城を浦上宗景が本拠地として大改修したと言って良いでしょう。
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浦上宗景は、浦上村宗の次男で、兄の浦上政宗が当主でした。
しかし、備前に侵攻してきた月山富田城の尼子晴久に味方するか、毛利家を頼るかで兄弟は意見が対立し、毛利元就と同盟した弟・浦上宗景は、備前・天神山に城を築いて蜂起したと言うことになります。
1554年頃から本格的な工事が行われたようですが、浦上宗景の本拠地となりました。
家中は2つ別れましたが、かつては浦上家の家臣だった宇喜多直家を召し抱えたこともあり、次第に勢力を伸ばし、戦国大名へと発展しました。
実際に、備前・天神山城の縄張りが完成したのは、1569年ともされます。
山上に浦上宗景や明石飛騨ら重臣の館があり。西方の天瀬と北方の田土には、家臣の屋敷が配置されていたようです。
兄は1564年、室津城にて子・浦上清宗と、姫路城主・黒田職隆の娘との婚礼当日、赤松政秀の奇襲を受けて父子ともに討死しました。
こうして、宗家は衰退し、織田信長に接近すると、1573年には、織田家から備前・播磨・美作の支配権を認められました。
しかし、家中での力をつけてきた宇喜多直家は、これに反対して毛利家に通じて、1574年に離反します。
そして、浦上政宗の3男・浦上誠宗の子である浦上久松丸を擁立して岡山城で反旗を翻しました。
こうして、宇喜多直家は、毛利家の後ろ盾を得て主君に対して下剋上をする「備前・天神山城の戦い」となります。
1575年、用意周到だった宇喜多直家は、次々に調略を行い、延原景能など家臣らの離反が相次いだ浦上宗景は、備前・天神山城も陥落し、御着城主・小寺政職を頼って逃れました。
このとき、宇喜多直家は備前・天神山城を焼き払ったとされ、廃城になった模様ですが、宇喜多勢がしばらく使用したともされます。
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今回は、予定外の訪問であったため、遠景撮影だけに留めましたが、天神山城へは、城の東にある「和気美しい森」というキャンプ場の奥から、約40分で登城できるそうです。
また、別の登城口となる天石門別神社から近いところにある「佐伯町ふるさと会館」には、天神山城関連の資料などが展示されていると言います。
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