獅子吼城(ししく-じょう)は、江草城、江草小屋、浦の城とも言う標高788mの山城で、比高は120mほどになります。
山梨県北杜市須玉町江草、塩川と湯戸ノ沢が合流する地点にあり、甲斐から野辺山方面の信州峠に続く旧小尾街道の抑えとなっています。
山の名前は、名江草富士とも呼ばれます。
最初の築城は不明ですが、平安時代には馬の産地であり、朝廷直轄の牧があったとも言われています。
鎌倉時代の末期である1320年に、信田小右衛門実正と、信田小太郎実高の父子が、家来と共に討死したと言う記録が地元の見性寺に記録としてあります。
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1394年~1428年には、江草信泰(江草兵庫助信泰)が、獅子吼城主として見受けられます。
この江草氏は、甲斐の武田一族で、江草家の初代・江草信景は、武田信重や武田信長の弟です。
その後、高白斎記によると、永正六年(1509年)10月23日に、小尾弥十郎なる武将が、獅子吼城(江草城)を乗っ取ったとあります。
乗っ取りですので、合戦があったとは限りませんが、巨摩郡の豪族である小尾氏から江草家の養子になり、事実上、乗っ取ったと言うことなのかも知れません。
戦国時代に小尾氏の小尾党は、信州峠の川上口の警固を行っています。
1530年前後の獅子吼城主は、今井信是・今井信元の親子で、諏訪頼満や、大井氏・栗原氏と協力して、武田信虎と敵対しています。
しかし、今諏訪の戦いで武田信虎に大敗を喫します。
今井信元は浦の城(獅子吼城)にて籠城したようですが、1532年9月に降伏し、これにより、武田信虎の甲斐統一となりました。
今回、登城まではしませんでしたが、戦国時代の甲斐の山城にしては珍しく、多くの曲輪に自然石を利用した石積みがあるそうです。
近くには金山もありました。
なお、山頂(本丸)からは、塩川上流にある大渡の烽火台、比志城、前の山の烽火台と甲信国境の信州峠。
西には中尾城、若神子城、大豆生田砦、能見城、そして新府城までの展望があり、武田家の烽火台(のろしだい)としての重要な役割もあったようです。
1582年、武田家が滅亡したあと、本能寺の変にて織田信長が横死し、天正壬午の乱となります。
このとき、北条氏直は、北から甲斐に進入しています。
そして、若神子城に本陣を構えましたが、大豆生田砦と獅子吼城にも北条勢を置きました。
しかし、1582年9月初旬、徳川家康の重臣・服部半蔵が率いた伊賀者が、津金衆・小尾衆など武田遺臣ら獅子吼城を夜襲し、落としています。
この敗北が響いて、北条家は帰路を失いかけたため、徳川家康と和睦するに至ったと推測できます。
戦国時代、獅子吼城の戦いは、甲斐では最後の合戦となりました。
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登城口は、獅子吼城の東側にある、駒ヶ入地区からとなる模様です。
根古屋集落には、国指定の天然記念物「根古屋神社の大ケヤキ」があります。
また、旧小尾街道には、江戸時代初期に「口留番所」(関所)が設けられましたので、重要な地点であることがわかります。
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武田信玄の血筋て、岡山県備中町平川にも江草城があります。城跡ですが、そこで、家老職を行なっていたようです。机下 江草