沼田竜替/沼田要害城(ぬまたようがいじょう)は、茨城県つくば市沼田字竜替にある筑波山(876m)の麓(ふもと)の沼田地区にある、燧ヶ池(三角池)(ひうちがいけ)のすぐ北側の高台がその場所だ。
ただし、高台と言っても比高はわずか5mほどである。
沼田地区は標高20m(推定)であり、そこから筑波山を眺めると、800m級の山でも結構高く見えると言う場所。
筑波山からのキレイな水が注ぐ水田地帯が広がり、江戸幕府の時代には筑波山神社の社領として幕府から寄進を受けていたこともあった。
しかし、徳川幕府の頃には当然機能はしておらず、戦国期に小田氏家臣が筑波城(筑波神社の東側)の出城(支城)として築かれた要害の一種であったものと推察される。
もしかしたら、筑波城主・筑波氏の家臣や親族が守備していたのかも知れない。
実際には小規模な館跡とも考えられる。
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約20m x 30mの主郭と思われる場所には現在熊野神社があり木々が繁っている。
恐らくいにしえの時代の小型・前方後円墳だと思われるが、土塁のようなものも見受けられる。
北側はすぐに筑波山の山すそとなっている。東側は約2mほど低くなっており、腰曲輪のような低地が下に続く。
南側とは約5mの比高差があり、その先が燧ヶ池であり、西側には低い土塁?が10mほど残り、西下の畑とは1mほどの比高差がある。
この畑の西側は低地の水田があると言う、多少だが地形的有利な場所と言え、年貢を取るにも便利な場所であり、領地経営の点でも沼田地区では一番要害に適した地であることがわかる。
竜替(ゆうがい)と余り聞きなれない呼び方がされているが、城の西側に今でも残る地区名によるものである。
「要害」が茨城弁?でなまったと考えられ、資料上では沼田要害城と呼ぶのが正しいのかも知れない。
しかし、要害と言う名とはほど遠い高低差5m程度であるが、展望を遮るものはなかったので、筑波城の前衛として展望もよかったでので、見張りと、筑波山の麓の警備が主目的の砦であったのだろう。
燧ヶ池(三角池)は、農業用水を確保する目的での池であったが、現在は、霞ケ浦からの用水が引かれているため、その役目は事実上、終えている。
ただ、水が溜まっていると、休日には若者数名が釣りに来ているが、何が釣れるのかは不明。
見学所要時間は10分程度。
駐車場は旧・筑波駅の南側にあるが、そこから徒歩10分くらい。
なお、当方のオリジナルGoogleマップのほうでは、沼田竜替となる熊野神社への入口をポイントにて印している。
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