宮崎県

日向・安永城~北郷家が支配した庄内十二外城のひとつ

日向・安永城

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日向・安永城(やすなが-じょう)は、鶴翼城、安永麓とも呼ばれる山城で、標高は192m、比高20mとなっています。
このように、日向では、そんなに比高がなくても、独立峰のようなケースが多いためか、平山城と言うよりは山城として区分されることが多いです。

庄内川を見おろすシラス台地の上にあり、内城(本丸)・新城・今城・金石城と4つの曲輪(くるわ)から構成されています。

最初の築城は、応仁2年(1468年)で、島津一族である北郷敏久が築いたとも伝わります。

のち、北郷義久のときに拠点を都之城に移して北郷忠相などが活躍します。

その後も安永城は、北郷7代である北郷数久の隠居地になったり、10代・北郷時久の嫡男である北郷相久の居城となるにど、北郷家の一族が城主を務めました。


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北郷久兼のときには、庄内十二外城と呼ばれる、月山日和城(高城)、志和池城、財部城(龍虎城)、山田城、梅北城、野々美谷城、山之口城、末吉城、恒吉城(日輪城)、梶山城、勝岡城といった支城群に、安永城も加わっています。

豊臣秀吉の九州攻めの際に、北郷時久・北郷忠虎は島津勢として参じました。
しかし、根白坂の戦いで敗れて島津家が降伏します。
このとき、果敢にも北郷時久は都之城にて籠城して最後まで抵抗しました。
そのため、豊臣秀吉は子の北郷忠虎に書状を送って降伏を勧め、石田三成と伊集院忠棟を通じて豊臣秀吉に謝罪し、人質を差し出すと、本郷家は所領安堵となっています。

しかし、1595年、北郷氏の日向諸県郡庄内8万石は、石田三成ら豊臣家の奉行衆と親しくなっていた伊集院忠棟が知行することになります。
そのため、北郷時久は先祖代々の都之城6万9千石から領地を減らされて、祁答院3万7000石として移転しました。
こうして、日向・安永城も伊集院氏の領地となっています。

1599年、島津家から危険視された伊集院忠棟が、島津忠恒によって殺害されると、子の伊集院忠真らは都之城にて籠城します。
安永城では。伊集院五兵衛、伊集院如松、白石永仙、中村平太夫らが篭ったとあります。(庄内の乱)
白石永仙は伊集院氏の軍師として知られる武将です。

徳川家康の許可を得て、島津忠恒は、自ら鎮圧するため出陣し、1600年2月6日、志和地城が降伏すると、他の外城も順次降伏したため、伊集院忠真は、徳川家康の調停を受けて、3月15日に刃を降ろしました。

伊集院忠真は頴娃1万石へ移され(のち帖佐2万石)、都城には旧領主であった北郷氏が復帰し乱は終結したため、安永城も再び北郷氏の支配下となっています。


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南の山麓に南洲神社があり、その南に広がる城下町は、今でも道路は狭く、風情を感じます。

1615年、廃城となると、麓に地頭仮屋が設けられました。

雨の中、今回は時間が余ったため、外観だけ撮影に向かいました。
安永城の本丸は、憩いの場である公園となっており、登城には困らないようです。
城の西側に駐車場があると言います。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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