大築城とは
大築城(おおづくじょう)は埼玉県入間郡越生町麦原にある山城。
別名は大津久城で、ときがわ町と越生町の境目にある。
標高466m、比高210m、しかも山深く埼玉県にしては難攻不落の山城と評価できるだろう。
城の存在は長い間忘れられていたが、1968年(昭和43年)9月の台風で倒木が多数発生し、その山林復旧の過程で城跡が発見された。
最初の築城は不明だが、応永年間(1394年〜1428年)に吾那憲光(吾那左衛門尉憲光、吾那左ヱ門尉憲光)が築いたともされる。
吾那憲光なる武将に関しては全く不明だが、飯能の高麗川沿いに吾那神社(あがの-じんじゃ)があり、西武池袋線の吾野駅もある。
大築城の南には「もろどの郭」(毛呂殿郭・モロドン曲輪)があるため、毛呂氏も守備についていた時期があったことも伺える。(毛呂顕繁か?)
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越生氏の一族が吾那氏で鎌倉公方の奉公衆であった。
吾那氏は吾那蜆城が本城とも推測されるが、大築城と共に築城年代がハッキリしないのでどちらが先かあとかは不明。
また、吾那蜆城があった場所は特定されていないが、戦国時代の1529年に、北条氏綱の重臣・遠山直景が吾那蜆城に入ったともある。
ひょっとしたら、吾那蜆城こそが大築城だった可能性も否定はできない。
1546年~1556年のあいだに、北条家に従っていた武蔵・松山城の上田朝直が大築城を攻略。
ときがわ町の慈光寺を焼き討ちしたので、観音堂を残し堂宇は灰に化したと言う。
このような経緯から、上田朝直(上田安独斎朝直)が大築城を築城し、75坊を構え関東屈指の大寺院で僧兵もたくさんいた慈光寺を攻略したとも考えられているようだ。
正直に申し上げれば、僧兵を有している寺院を攻撃するのに、こんな離れた高所に陣城は不要と感じる。
逆に攻撃を受けると言う弱い立場であれば築城してもおかしくはないが、攻撃する側にこんな難攻不落の城は不要だ。
麦原から椚平に抜ける古道は昔から街道だったようなので、単純に街道の抑えと言う事だろう。
特に、もろどの郭は、街道に接する形で造営されているらしい。
交通アクセス
大築城に登城する場合、軽登山の装備がお勧め。
電車の場合、JR八高線・東武越生線の越生駅から黒山行バスに乗車し、麦原入口バス停下車して徒歩約90分。
このように大築城へのアプローチは越生町麦原からも登れるようだが、北側の椚平地区に「冠木門」がある。
その冠木門から、氷川へと降りて行く脇道があり、材木加工場から更に先のほうに登城口あり、クルマ1台の駐車スペースもあると言う。
この椚平側から本丸まで徒歩70分くらい、高低差160mほどだが、このルートで麦原まで抜ける道は昔から街道だったようだ。
冠木門があるの場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。
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念のため記載しておくが、冠木門は拝所のような感じで、門を抜けると登城口になっていると言う事ではないので、勘違いしないように。
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