安芸・亀居城(かめいじょう)は、広島県大竹市にある福島正則が築城した城として知られます。
1600年、関ヶ原の戦いのあと、福島正則は、毛利輝元が築城した広島城に入りました。
皆様ご承知の通り、毛利家は関ヶ原で石田三成に味方したため、大幅な減封となった訳ですが、この広島の西にある岩国城には吉川広家が入り、毛利家と国境を接する形となった訳です。
そのため、毛利家から広島城を守る為の支城として、1603年に亀居城の築城を開始しました。
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関ヶ原のあとに建造した城ですので、石垣もふんだんに使い、本丸、二の丸、三の丸、有の丸なども備えた、本格的な城の設計になっています。
標高88mの平山城で、城内に山陽道を取り込み、比高は87mと、当時は海にも面しており、城から水軍も出撃可能だったようです。
5年の歳月を経て完成すると、山田小右衛門と森佐助が城代となりました。
小方城とも呼ばれますが、亀の形をしていたことから「亀居城」と呼ばれることが多いです。
しかし、豊臣秀頼と徳川家康が対立するようになると、豊臣恩顧の福島正則への風当たりも強くなります。
広島城の支城としては、あまりにも巨大で堅固な造りであったことから、亀居城に対して徳川家康は疑念を感じるようになります。
そのため、福島正則は、完成して僅か3年の1611年に亀居城を破却しました。
それでも、徳川家からの疑念を払しょくする事は出来ず、福島正則は1612年に隠居して家督を譲っています。
大阪の陣にて、福島正則は徳川軍として参陣することも許されず、江戸留守居役を命じられています。
大阪城の豊臣家は滅亡させたものの、徳川家としては、豊臣恩顧の大名はできれば潰しておきたいと言う考えがあり、1619年、洪水で広島城の石垣などを修復したのが、幕府には無断であったとして、福島家は安芸・備後50万石を没収され、高井野藩4万5000石に減封されました。
ちなみに、福島正則の死後には、福島家は取り潰しとなっていますが、3000石の旗本として存続しました。
亀居城は現在「亀居公園」として整備されています。
下記は天守があったとされている本丸跡となります。
下記のように天守台もあります。
また、出土遺物として大量の瓦が出ていることから、天守もあったと推定されているようですが、僅か3年で消えた城ですので史料がなく、天守の構造などは不明との事です。
本丸からの眺めは良いです。
公園整備した際、崩れていた石垣を改めて積んだり、足りない部分は新たに加工した新しい石垣を入れたようです。
そのため、場所によっては石垣が無かった場所にも石垣が設置されたようですが、全体的に石垣は非常によく残っている印象です。
ただし、一部は、昔からあるのか、新しく設置したのか?、良く分からない石垣があるのも事実です。
近年に整備した公園でしたら、ある程度「忠実」に元に戻そうとしたはずでしょうが、まだそこまで考えも及ばない時期に公園整備したのでしょう。
いずれにせよ、住宅街とならず公園として残された訳ですし、見学しやすくなっている言う意味では、平山城にしてはありがたい話です。
なお、下記のように石垣には「刻印」が示されており、効率よく石を組む工夫をしたことが伺えるとの事です。
本丸の石垣も、下の方は昔のままですが、上の方は崩れたのか?持ち去られたのか不明ですが、公園にした際に欠けている石垣を復元したようなキレイな石垣になっている事が一目瞭然です。
しかし、これだけの規模の城にも拘わらず、僅か3年で役目を終えるに至ったのは、非常にもったいない感じが致します。
関ヶ原では、徳川家康に味方した福島正則でしたが、結局は徳川家康に逆らえず、この亀居城を破却し、豊臣家も滅亡となり、そして改易になったと言う事で、さぞかく無念であったと推測致します。
下記は石垣の割った跡です。
さて、広島県大竹市にある亀居城の駐車場は城の西側山麓の道路脇にあります。
坂道の途中となりますが、下記の地図ポイント地点が駐車場の場所です。
歩いたり自転車の場合に、結構な急坂を登って行くことになります。
亀居城の見学所要時間は駐車場からで約30分でした。
夏場は虫除け・熱中症対策などを忘れずに。
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