溝呂木城(みぞろぎ-じょう)は、溝呂木要害とも呼ばれます。
神奈川県厚木市にあると考えられていますが、実はどこにあったかが定かではありません。
厚木市の推測では、相模川・中津川・小鮎川の3つの川が合流する地点だとされます。
となると、山城のような要害と言う事ではなく、相模川と中津川の合流地点の狭い場所に築かれた、平城と言えます。
相模川は、増水すると、今でも、川の流れている位置が、河川敷の中で、変わってしまったりします。
そのため、洪水や堤防工事などで、城跡も失われたものと推測します。
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現在、厚木パノラマタワー(国土交通省厚木無線中継所)が立つ付近と推定されています。
下記の地図ポイント地点です。
ただ、相模川も中津川も、洪水にもなる川ですので、恐らく、戦国時代前と、今では、川岸の地形も変わっているのでしょう。
相模川は、増水すると、今でも、川の流れている位置が、河川敷の中で、変わってしまったりします。
そのため、洪水や堤防工事などで、城跡も失われたものと推測します。
削られたと仮定しますと、場所がわからなくても、当たり前と言ったところです。
ただし、付近には溝呂木という名の家が、古くからあると言うことです。
長尾景春の乱の時、溝呂木城主は溝呂木正重と言う説があります。
山内上杉勢として参じ長尾景春に味方した武将として、下総葛西領主・大石石見守、武蔵・二宮城の大石駿河守、相模・小沢城の金子掃部助、相模・小磯城の越後長尾五郎四郎、溝呂木城の溝呂木氏重、小机城の矢野兵庫助
太田道灌状によると下記のような記述があるようです。
相州には景春被官人溝呂木、在所を要害に拵(こしら)え候。
三月十八日溝呂木要害へ差し遣はし候の間、自火せしめ没落。
長尾景春に従っていた溝呂木氏は、1477年3月18日に太田道灌に攻められて、溝呂木正重は城に火を放ち、どうやら相模・磯部城に逃れたようです。
しかし、太田勢は小机城を攻略したあと、相模・小沢城の金子掃部助を攻撃しており、同時期に、磯部城(磯部氏か?)も陥落しました。
陥落したと言うよりは、降伏したと言った方が良いでしょうか?
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なお、溝呂木氏と磯部氏は、恐らくは婚姻関係もあったものと推測されます。
相模・磯部城の付近にも、溝呂木さんと言う古いお宅が多いのですが、戦国時代にはすでに半農状態だったようです。
そして、磯部氏と名を変えたり、溝呂木氏に戻ったりしたともあります。
ただし、新編相模国風土記稿によると、戦国時代において、第3代の古河公方・足利高基の子が、溝呂木氏重(溝呂木式部大輔氏重)と称したともあります。
江戸時代に、溝呂木家は、相模川の渡船権を徳川幕府から認められており、徳川家康とも親しかったようで、中原御殿(平塚市)周辺で鷹狩をすると、溝呂木家に立ち寄って休息したと伝わります。
なお、愛甲石田の石田寺に、溝呂木家の墓が多数あるようですので、もともとは、愛甲石田が本貫だったのかも知れません。
この石田寺は、鎌倉時代の武将・石田為久の菩提寺でもあり、ちょっとだけ、石田三成にもゆかりもあります。
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