槇島城とは
槇島城(まきしま-じょう)は、京都府宇治市槇島町にある平城で、槙島城とも書きます。
城の名前に「島」と言う字が使われているとおり、大きな池や沼があったようで、槇島は浮かぶ島の様相だった模様です。
最初の築城としては、鎌倉時代の1221年、長瀬左衛門が築いたと伝わります。
承久の乱の際に、後鳥羽上皇に味方した長瀬左衛門が守備しました。
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その後には、真木島氏、槇島氏、槇嶋氏、真木嶋氏、牧島氏などと言う豪族の名前も見受けられます。
真木島氏は、一色氏の一族で、9代将軍・足利義尚に仕えた室町幕府の奉公衆の一色輝元(一色信濃守輝元、一色輝光)が山城・槇島城を与えられました。
真木光通(真木嶋六郎藤原光通)と言う名も見受けられますが、不詳です。
1499年、宇治・槇島の戦いとなった際には、細川政元の軍勢が山城・槇島城を落としており、以後は細川政元が居城として使用し、室町幕府第11代将軍・足利義澄を招いたりしています。
その後、槇島城は真木島昭光に戻されたようです。
真木島昭光(まきし-あきみつ)は、室町幕府15代将軍・足利義昭の側近で、偏諱を受けて昭光と名乗っています。
天正元年(1573年)、足利義昭が織田信長に逆らって、京都から槇嶋城に入りました。
織田信長は、即座に兵を進めて「槇島城の戦い」にて勝利し、足利義昭が敗れています。
足利義昭は河内・若江城へ退去させられ、足利幕府は事実上滅んだ戦いとなりました。
その後、槇嶋城には、塙直政、井戸良弘らが入っています。
一方、足利義昭が毛利家を頼って備後・鞆の浦にて鞆御所(鞆城)を設けると、従っていた真木島昭光は、幕臣の筆頭となっています。
1597年、足利義昭が死去すると、豊臣秀吉の命によって、真木島昭光と西笑承兌が葬儀を行っています。
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その後、真木島昭光は2000石にて、豊臣家の奏者番になりました。
そして、大坂城の豊臣秀頼にも仕え、大坂の陣では、堺にも出陣して徳川勢と戦っています。
敗戦後、京都で出家すると、細川忠興や加藤嘉明らの嘆願によって助命され、以後は細川家にて1000石になったと言われています。
伏見城ができてからは、槇島城の重要性は薄れて、建物の一部も伏見城に移築されたとも言います。
歴史的にはとても重要な城なのですが、現在、槇島城跡は住宅地になっており、道路も狭く、槇島城の遺構は残されていません。
槇島城が存在したことを示す石碑が、子供が遊ぶ小さな公園にあります。
トップの写真は、上記写真の公園とは別にある槇島公園の様子で、ここも城跡の一部と考えられているようです。
当方のオリジナル地図にて、石碑などの場所をポイントしておきますが、駐車場は無く、道路もほんと狭いです。
道路の交差点は、車では曲がれない(狭い)ところもありますので、広めの道路より、アプローチ願います。
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