三河・野田城(のだ-じょう)は、愛知県新城市豊島にある標高50mの平山城で、比高は18mほどになります。
別名は、根古屋城、三河野田城とも言いますが、武田信玄が亡くなる直前、最後に攻めて陥落させた城として知られます。
1508年、菅沼定則によって築城され居城となりました。菅沼定則の子・菅沼定村や、孫・菅沼定盈も居城としています。
1561年、織田信長の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、菅沼定盈は今川家から離反したため、今川勢に包囲されて開城し退去しています。
1562年に、菅沼定盈が夜襲を行い、野田城を奪回しますが、野田城は大きくは破壊されてしまったため、大野田城を仮本拠とし、修復開始しました。
1571年、武田信玄の遠江・三河侵攻では、武田家臣の山県昌景・小笠原信嶺らが大野田城を攻撃すると炎上したため、1571年12月、菅沼定盈は修理中の野田城を再び本拠としています。
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野田城の戦い
1572年12月、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った武田信玄は、遠江国浜名湖北岸の形部村にて年越ししました。
その後、1573年1月10日に出発すると、細かく宿泊をして、宇利峠から三河へと進入。
これは「風のごとく」と言う風林火山の武田軍では、かなり遅い進軍スピードです。
ようやく豊川を渡ると、1573年1月に500名程度が守備する野田城を包囲します。
この時、徳川家康は三方ヶ原の戦いによる大敗で、援軍(後詰)ができる状態ではありませんでした。
しかし、この時、武田勢は30000の軍勢にて、簡単に落とせたと思える野田城の攻略に、約1ヶ月も費やしています。
そのため、この時、既に武田信玄の病状が重い状態だったと推測されています。
なお、野田城には、城から聞こえた村松芳休の笛の音に聴き惚れた武田信玄が近づいたところを、鳥居三左衛門が鉄砲で狙撃したとされ、その傷がもとで亡くなったとの伝説があります。
野田城本丸の西側なのですが、その向こうの高台は、そんなに遠くないので、仮に武田勢がいたとすれば、狙撃は可能だったと存じますが、百戦錬磨でとても慎重な武田信玄が、こんな前線にうかつに現れるとは考えられませんので、恐らくは前線を指揮していた他の武将ではなかったと推測します。
野田城の戦いでは、武田勢は、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せ、地下道を掘って水の手を断ち切ります。
野田城は約1ヶ月籠城しましたが、水の手が切られ、2月16日に城兵の助命を条件に菅沼定盈は開城降伏しました。
その後、菅沼定盈は武田家の捕虜となって連行されましたが、3月10日に徳川家と武田家の人質交換で解放されています。
武田信玄が死んだとのうわさが流れると、徳川家康は長篠城を攻略。
菅沼定盈も1574年に野田城を奪還しています。
1590年、豊臣秀吉による小田原攻めのあと、徳川家康が関東へ移封となると、菅沼定盈も従ったため、吉田城主となった池田輝政の配下の者が新城城に代官として入り、野田城は破却・廃城となりました。
訪れて見ますと、野田城の第一印象は、半島のように突き出した台地の先端にある、小さな平山城でした。
両側は切り立った崖とは言え、比高も僅か18mで、たいしたことがないのに、3万の武田勢は1ヶ月も攻略に費やしたのです。
本丸、二の丸、三の丸と連郭式に3郭ほどがあったようですが、現在、遺構として確認できるのは本丸部分のみです。
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野田城への交通アクセス・行き方ですが、JR飯田線の野田駅と、東上駅のちょうど真ん中あたりにあります。
駐車場はありません。
下記の地図のポイント地点の路肩にちょうど1~2台止められるスペースがありました。
駐車禁止の道路ではないと思います。感謝しつつ10分ほど短時間停めさせて頂いて見学しました。
ゆっくり見学される場合には、法性寺さんの駐車場をお借りすると良いかもしれません。
初めてコメントさせていただきます、鷲谷と申します。
歴史についての記事を書くことが多いので、ご参考にさせていただきました!
野田城は一般的にはあまり名前の知られていない城ですが、信玄の最後の城攻めの地と考えると感慨深いですよね。
果たして城兵500名がこもって1ヶ月耐えられる城だったのか、信玄が病床にいたため武田軍が混乱していたのか気になるところです。
城構えが残っていない今となっては判断が難しいですが、研究が進むことを願っています!