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賀儀城とは
賀儀城(かぎじょう)は、広島県竹原市の瀬戸内海に面する忠海の海岸に築かれた標高20mの水軍城で「鍵城」とも言います。
何度か小早川家は相模国の土肥郷が出自とご紹介させて頂いておりますが、土肥一族の小早川氏実が、浦郷(忠海)を与えられて赴任すると「浦氏実」と称するようになり、賀儀城を築城したと考えられます。
山肌が崩落防止の為コンクリートで固められているのが、良い演出なのか、悪い演出なのかなんとも言えませんが、賀儀城へは下記の小学校(中学校)体育館脇から登って行きます。
1565年、忠海・賀儀城は改修され、小早川水軍の本拠地となっています。
下記が賀儀城の本丸跡です。
おばあさんが1人体操をなさっていました。お邪魔して申し訳ありません。
賀儀城は大きな岩が主体となっており、本丸の下には帯曲輪があったようです。
二の丸となる曲輪の北端には、土塁が少し残っています。
井戸もあったようですが、危険な為、現在は埋められているとの事です。
海側の斜面下には「船隠し」の穴も掘られていますがそこまで見れるかどうかはわかりません。
賀儀城へのアクセスですが、国道185号の城山踏切北から南下します。
賀儀城の登城口は、忠海中学校の東側からとなりますが、その付近に駐車場や駐車スペースはありません。
正確には忠海西小学校の体育館脇から登城できます。
下記の地図ポイント地点です。
クルマ(自動車)は、東の海岸防波堤脇に止めさせて頂きました。
駐車禁止ではありませんが、道幅が広いと言う訳ではないので、止める場所はご配慮願います。
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勝運寺と浦宗勝の墓(乃美宗勝の墓)
安芸・賀儀城からほど近い勝運寺には、浦宗勝の墓(乃美宗勝の墓)があります。
本堂左手の奥を墓所に入って行き、案内に従って登った竹林のところに浦宗勝の墓があります。
この忠海・勝運寺は、乃美宗勝(浦宗勝)が立花山城から撤退して、賀儀城に戻った1570年に建立した寺院で、菩提寺と定めていました。
瀬戸内海を見下ろす勝運寺には、300貫を寄進していたと言います。
宝篋印塔となっており、浦宗勝の妻の墓と、5人の重臣の墓があります。
どのお墓がそうなのかまでは良くわかりませんが・・。
なお、勝運寺がある山は「烏ヶ城」とも呼ばれるため、賀儀城(鍵城)の詰城であった可能性もあるのではと存じます。
下記写真にこんもりと茂っている丘が賀儀城で、奥にうっすらと見える大きな島は大三島です。
また、乃美宗勝(浦宗勝)は、1592年の朝鮮攻めにて病気となり、福岡の立花山城近くで病没したことから、福岡県東区の宗勝寺にも墓があります。
小早川隆景が、筑前から三原城に隠居した際に、裏宗勝の墓が勝運寺に改葬されたとの事です。
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勝運寺の見学は、境内の駐車場を利用させて頂きました。
下記の地図ポイント地点となります。
このあと、忠海港から大三島フェリーに車ごと乗って、大三島へ向かいました。
・乃美宗勝とは~浦宗勝とも名乗り水軍を率いた小早川家の勇将
・厳島の戦い~戦国時代の三大奇襲戦と宮島の宮尾城と勝山城
・児玉就英とは~毛利水軍を率いた草津城主
・毛利輝元とは【かろうじて毛利家をつないだ戦国大名】
・三原城と石垣~小早川家が改修した本格的な水軍城
・米山寺と小早川隆景の墓などがある小早川家墓所
・大山祇神社(大三島)~国宝と国の重要文化財指定の「甲冑」の4割がココに
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