高森城の戦い
高森城(たかもりじょう)は熊本県阿蘇郡高森町高森にある山城で、別名は囲城とも言います。
最初の築城は鎌倉時代と伝わります。
戦国時代には、阿蘇家一族の高森惟直が肥後・高森城を守備しました。
高森惟直(たかもり-これなお)は、南郷七家の筆頭で、1585年に阿蘇惟光が岩尾城から逃れたあとも島津勢に反発して大友義鎮に助けを求めました。
しかし、高森城は新納忠元らの攻撃を受けます。
そのため、城から撃って出て決戦に臨みますが敗北し、兵200人以上と共に高森惟直も討死し、阿蘇家の最後の砦も陥落しました。
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その高森惟直の子・高森惟居は、島津勢に降伏しましたが、これは高森惟居の謀略で、密かに大友家に引き続き援軍要請し、高森城にて油断していた島津勢を急襲しました。
大友勢と、岡城主の志賀新次、南郷七人衆の高森、村山、長野、市下、二子石、竹崎、渋川ら阿蘇税と共に高森城を攻撃して、島津勢を壊滅させました。
これにより、島津勢は兵力が低下し、御船城攻略も放棄して、花の山城まで撤退したと言う事になります。
更に、甲斐親英が阿蘇旧臣をまとめて花の山城も攻め落とし、島津勢の木脇祐昌と鎌田政虎、救援に向かった深水長智の嫡子・摂津介、犬童刑部、牧野勘解由ら相良勢が討ち取っています。
ただし、1582年との話もあり、諸説あります。
なお、1586年、島津義弘が主力にて反撃した結果、堅志田城、花の山城、御船城が陥落し、甲斐親英は降伏。
御船城の北にある赤井城や木山城、そして木山城の東にある津森城も陥落。
今石城は石原吉利が籠城の末に玉砕、今石城の西にある竹迫城も陥落しました。
そのため、岩尾城・長野城・下田城・南郷城なども降伏開城し、高森囲の高森惟居(高森伊予守惟居)は再起を図るため豊後へ向かいました。
しかし、1586年1月23日、その途中、家臣の裏切りによって島津勢の追撃を受け討死(自刃)しています。
高森城から北東にある清栄山(標高1006m)は、高森惟居と側近・三森兵庫守能因が切腹した場所とされ、高森殿杉(たかもりどんのすぎ)があります。
また、高森惟居の娘・柏姫は、島津に斬られたと伝わり、高森町の西郊にあり柏塚が、柏姫の墓とされています。
高森惟居の墓は、菩提寺・含蔵寺で、家老・武田元実(武田大和守元実)、三森能因の墓もあります。
こうして、島津家は肥後を平定したのです。
国道265号の高森峠となる高森城跡付近は、千本桜というサクラの名所にもなっています。
なお、高森城は遺構があると言う事ではなく、場所も推定地となっているようです。
地図のポイント地点は、高森城の石碑がある場所となります。
国道265号沿いの坂道途中にありますが、カーブとトンネルがあるところで見通しも悪いため、上りではなく「下り」で寄ることをお勧めいたします。
道路の本線上に停車するのはとてもキケンですので、絶対にやめてください。
高森からクルマで行った場合には、上の方の展望台PにてUターンして戻ると安全です。
追突防止のため、ウインカーは早めに出しましょう。
高森城の高い部分と思われるところから阿蘇山の方面を撮影した展望写真は下記です。
その他、文中でもご紹介した高森城関連の史跡も訪問してみました。
愛馬竜風の墓
高森城主の愛馬であり、数々の戦場で連戦連勝を重ねて、伝説となった名駿「龍風」の墓です。
あらゆる勝負事にご利益があるとされ、特に競馬関係者の信仰があるようです。
ただし、強力なパワースポットで、周囲を覆う篠(しの)を刈ると災いがあると言われています。
場所は当方のオリジナル地図にて正確なところを示させて頂いております。
高森殿杉
高森殿杉(たかもりどんのすぎ)は、ちょっと坂道をクルマで登って行った高台にあります。
高森城主の高森伊予守惟居と、側近・三森兵庫能因ら主従が自刃した地として伝わります。
6台ほどの舗装された無料駐車場が完備されていました。
そこから、牧場の人が通れる柵から入って行きます。
スニーカー以上であれば、他に特別な装備は不要です。
道なりに、せっせと上っていくこと約5分。
振り返れば高森の街並みがとてもキレイなところです。
舗装されている道が途切れるあたりを左手に降りて行く小道がありますので、下って行きますが、危うく見落とすところでした。
分岐から1分ほど下った窪みの暗い場所が高森殿杉となっています。
樹齢は400年とも1000年とも言われています。
杉の木は高いので、とてもカメラに収まりません。
地面の部分だけでご容赦願います。
古い石碑のようなものもありました。
実は、女優・菅野美穂さんも、この高森殿杉を訪れており、お互いを讃え合うようにそびえ立つ1対の杉を雄杉と雌杉を見て、木に抱きついてパワーをもらったと言います。
そのあと、すぐに、堺雅人さんとの結婚が決まったと言う事で、最近は縁結びのご利益があるともっぱらの評判になっているようです。
そのためか、平日のこんな辺鄙なところに、女性2人組があとから訪れておられました。
含蔵寺
含蔵寺は含蔵禅寺とも書きますが、鎌倉時代の創建と伝えられ、代々高森城主の菩提寺でした。
高森城が落城した際には、兵火にあって、その後禅刹に改められたと言います。
熊本藩主・細川宜紀が30を寄進し、直筆起雲山の扁額も奉納したため「起雲山・含蔵寺」と呼ばれます。
山門から入って正面の階段を登った左手に墓所がありました。
下記は、高森惟居の墓(高森伊予守惟居の墓)です。
そのすぐ右手に、三森能因の墓がありました。
白い木柱がありますので、家臣・三森能因の方が目立っているように感じます。
家老・武田元実の墓(武田大和守元実の墓)は、階段の下段となる、階段の登り口左手手前あたりにあり、分かれていました。
無料駐車場もありますが、ここまでの道は広くはありませんので、当方のオリジナル地図をカーナビ代わりにご活用頂けると良いかと存じます。
含蔵寺へは、南阿蘇鉄道の高森駅より徒歩で約15分です。
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とても丁寧な解説付きご案内、ありがとうございます。
40を過ぎ、自分のルーツを確かめたい欲求が増す中で、旅のガイド役を頂いた思いです。