近江・真野城(まの-じょう)は、滋賀県大津市真野にある平城です。
最初の築城は定かではありません。
一説によると、平安後期に沙沙貴神社の神主を務めるなどした宇多源氏・佐々木経方の子である佐々木行範が近江国蒲生郡に入って間野氏(真野氏)称しました。
その孫である佐々木貞時が、1273年5月に、近江国真野荘に赴任し、古代豪族・真野臣と何らかの接点を得て真野氏を名乗った模様です。
そして、戦国時代まで続きましたが、1518年、真野城主・真野信重(真野土佐守信重)は、近江・小谷城主の浅井亮政に攻められて、真野城は落城しています。
その後、観音寺城の六角氏に従っていたようですが、1570年には、真野元貞(真野十左衛門元貞)のとき、織田信長の軍勢の攻撃を受けて再び落城しました。
このとき、真野元貞は出家して西養坊宗誉と号し、領民の幸せを祈る余生を過ごしたと伝わります。
その子孫は、真野地区に所領を得た徳川家旗本・神保氏の代官を勤めたともあります。
この真野家の後裔は、現在でも付近にお住まいです。
豊臣秀吉の仕えて、中国大返しの際に、姫路城の留守を任された真野助宗(まの-すけむね)がいますが、父は真野信重(真野元定)とする説があるようです。
真野助宗の子は真野頼包で、その真野頼包の娘・青柳は、大坂の陣にて討死した木村重成の正室です。
現在、真野城跡は、昌法寺の背後にある墓地が城跡とされ、地形は改変されているようです。
一部が公園として整備されていますが、これは真野古墳の案内板になっており、石室が展示されていますので、古くは古墳だったのでしょう。
当方のオリジナル地図にて、近江・真野城の場所をポイントしておきます。
近江・衣川城とセットでどうぞ。
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