志摩・田城城(たしろ-じょう)は、三重県鳥羽市岩倉町にある丘城で、加茂川に河内川が合流する場所の南にある小さな丘陵に築かれています。
国道167号線沿いにある、九鬼岩倉神社前信号のすぐ東側となります。
標高は30m、比高は10mで高さもないのですが、かつて、田城城の周りは湿地帯だったようで、要害の地だった模様です。
田城々とも書きます。
最初の築城は不明ですが、田城左馬之助と言う武将の名前が見受けられます。
ただし、年代やどのような人物だったのかは不明です。
そのあと、天文年間(1532年~1555年)には、志摩の波切城主・九鬼泰隆が伊勢力を伸ばして支配下に置いたようです。
九鬼嘉隆の祖父である九鬼泰隆は、が、伊勢国司・北畠氏に臣従して、神官と争っていましたが、その戦功によって二見七郷と加茂五郷を与えられたとありますので、その恩賞で得た地だったのかも知れません。
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九鬼嘉隆の兄・九鬼浄隆が家督を継ぐと、勢力拡大を危惧した、相差・和具・小鹿・安楽島・甲賀・国府・浜島の七党が北畠氏の後ろ盾を得て、志摩・田城城を攻めましたが、このときは勝利しています。
しかし、九鬼浄隆が急逝して、子の九鬼澄隆が家督を継ぐと、再び七党が攻め寄せました。
九鬼浄隆の弟で、波切城主だった九鬼嘉隆が援軍として駆けつけますが、敗れて田城城は落城し、九鬼澄隆は朝熊山へ逃れたとあります。
その後、九鬼嘉隆は滝川一益に接近して親交を重ね、織田信長の臣下に列します。
1569年、織田勢は伊勢に進攻し、北畠具教・北畠具房の親子を降した際に、九鬼嘉隆は織田水軍の将として活躍しました。
そして、志摩の攻略を命じられて、九鬼嘉隆は志摩国を平定します。
このとき、田城城を奪還すると、自ら城主として入りました。
そして、天正10年(1582年)、鳥羽主水に九鬼澄隆を暗殺させて、九鬼嘉隆が九鬼家の当主の座につきました。
織田信長が、当主の座を奪えと命じたともされています。
1585年から、九鬼嘉隆は鳥羽城の築城を開始したため、次第に田城城は使われなくなったものと考えます。
ただし、1600年、関ケ原の戦いの際には、石田三成に協力して九鬼嘉隆は田城城にて籠城しています。
嫡男・九鬼守隆は、徳川家康に味方したため、一戦を交えると、答志島へ逃亡したともされます。
寛永三年(1626年)、田城城跡には、九鬼澄隆の怨霊を鎮めるため、初代・鳥羽藩主の九鬼守隆によって、九鬼惣領権現が祀られました。
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交通アクセスですが、近鉄志摩線の加茂駅から徒歩15分となります。
残念ながら、駐車場はありません。
国道脇で立ち寄りやすいだけに、とても残念に思います。
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