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越前・戌山城~整備されている要害

越前・戌山城

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越前・戌山城(いぬやまじょう)は、犬山城とも呼ばれる標高325m、比高160mの山城です。

最初の築城は定かではありませんが、南北朝時代に越前大野の領主であった、亥山城(土橋城)主の堀口氏政(堀口兵部大輔氏政)が、越前守護・足利高経(斯波高経)の攻撃を受けました。
そして、大野は斯波氏の支配下となり、斯波高経の5男・斯波義種(しば-よしたね)が、亥山城(土橋城)を任され、大野斯波家の初代になりました。

このとき、資料により混同があり、どちらが正しいのか、よくわからなくなってしまっていますが、亥山城(土橋城)だけでなく、防衛に向いている戌山城(犬山城)も築いたようです。
両方とも城の名前を「いぬやまじょう」とも呼び、距離も越前・大野城を挟んで、僅か1800mほどしか離れていないため、情報が混乱しています。
そのため、斯波義種は、亥山城(土橋城)とも、戌山城(犬山城)でもあるとしかここでは記載のしようがないこと、お詫び申し上げます。

ただし、大規模な堀切跡などは、斯波氏の居城という印象があるようです。
下記は越前大野城から見た、戌山城(犬山城)となります。

戌山城

このページでご紹介する戌山城(犬山城)は山城であり、1日3回も麓まで水を汲みに行ったと言う記録もあり、籠城には向いていなかった可能性もあります。
それに対して、亥山城(土橋城)は湧き水が豊富な大野の街にある平城ですので、恐らく、本拠と言えるのは、亥山城(土橋城)のほうであっただろうと存じます。

この斯波義種は分家ながらも、加賀守護・越前守護・若狭守護・信濃守護・山城守護も兼ねて栄華を誇りました。
その後、斯波氏の勢力が衰えると、越前守護代の朝倉氏が実権を握ります。

最後に残った、大野の亥山城(土橋城)主・二宮左近将監と弟・二宮駿河守を破った、朝倉孝景(あさくら-たかかげ)は、越前を平定しました。

こうして、山城の戌山城(犬山城)も、朝倉家の支配下となり、越前大野には「大野郡代」が置かれて、戦国末期には朝倉景鏡(朝倉式部大輔景鏡)が亥山城(土橋城)主となりました。
朝倉氏滅亡の頃になると、戌山城(犬山城)は、もうほとんど使われていなかったようです。

朝倉家が滅亡したあと、織田信長の重臣・金森長近が大野郡3万石となりましたが、この時、一番最初に、戌山城(犬山城)に入りました。
しかし、水の手が悪いなどの理由があったようで、すぐに亀山に大野城の築城を開始します。
そのため、戌山城(犬山城)は使われなくなったようです。

なお、現在では、雲海に浮かぶ天空の城「越前大野城」を早朝に撮影する絶好のスポットとして、戌山城(犬山城)の南郭(南出丸下)には、多くのカメラマンが暗いうちから登る事でも知られます。
下記はインスタからです。

河瀬遥さん(@haachan121)がシェアした投稿 –

登城道はいくつかあり、登山道もハイキングコースとして整備されているようです。

北西麓の「みくら清水」近くの道路わきに数台の駐車スペースがあり、登城口があります、徒歩20分で山頂(本丸)です。

越前・戌山城

みくら清水の場所までは、JR九頭竜線・牛ヶ原駅より徒歩25分となります。

近くの真乗寺には、越前・大野城の裏面を守った搦め手門(不明門)もありますので、越前大野城と同様、セットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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