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甲府城とは
甲府城(こうふじょう)は山梨県甲府市中心街の一条小山に築城された平山城で、標高298m、比高30m。
古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城と呼ばれていたが現在は「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として整備されている。
一条小山は甲斐源氏の武田信義の嫡男・一条忠頼の居館があった可能性がある。
ただし、一条小山が1184年に死去すると、菩提を弔うために夫人が一蓮寺と言う尼寺を築いたようだ。
ただし、戦国時代になると1524年に一条小山にも「砦」を築くことになり、一蓮寺は麓に移転したが、武田信玄の時代には、北方の躑躅ヶ崎館(武田家居館)を中心とした城下町となっている。
その後、1582年に武田が滅亡すると、1583年頃から甲府城が築城開始された。
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徳川家康の家臣で普請を行ったのは、甲斐を統治することになった平岩親吉である。
また、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が江戸城に入ると、甲斐には豊臣秀勝が入ったが、僅か8ヶ月で岐阜城に移り、その後は加藤光泰が24万石で甲府城主となった。
加藤光泰は河内には嫡男・加藤貞泰と実弟・加藤光政、郡内には養子の加藤光吉を配置しており、また甲府城の本丸・天守曲輪・稲荷曲輪・館曲輪などの工事を開始した。
加藤光泰が1593年に死去すると、その後の甲府には浅野長政が21万5000石にて入り、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長らを与力としている。
1600年、関ヶ原の戦いのあと、甲府城主・浅野幸長は和歌山藩37万6000石となり、徳川家康の9男・徳川義直が甲府藩主となり、平岩親吉が後見した。
その後、1616年(又は1618年)からは、徳川秀忠とお江の子である徳川忠長が23万8000石で甲府藩主となっている。
しかし、素行の悪さから1631年から蟄居となると、その後は幕府直轄領となったが、1651年に徳川家光の3男・徳川綱重が甲府藩主となった。
のち、1704年には15万1200石にて柳沢吉保が甲府藩主となった。
柳沢家は元武田家臣であり、柳沢吉保は甲斐・恵林寺にて武田信玄百回忌の法要を行うなど、武田氏の旧跡も整備するなどした他、武田信玄の次男・海野信親の子孫とされる武田信興を高家として取り立てる際にも尽力した。
幕末期には再び天領となっていたが、甲府城には甲府城代が置かれ、戊辰戦争の際には旧幕府軍と近藤勇・土方歳三ら新政府軍は甲州勝沼の戦いとなっている。
ちなみに、甲府城の楽屋曲輪(山梨県庁構内)には、江戸時代まで温泉が湧出していたそうだ。
近年には稲荷櫓、鍛冶曲輪門、内松陰門、山手御門、鉄門などが復元整備されるなど、史跡整備が強化されており、今後も楽しみな甲府城である。
甲府城への交通アクセス・駐車場
さて、甲府城の攻略方法であるが、JR甲府駅から甲府城の麓までは徒歩3分と近い。
甲府城の駐車場は事前申請が必要な団体バス・障害者専用となっているため、一般駐車場はない。
よって、下記のコインパーキングが至近でありお勧め。
上記の駐車場に止めれば、甲府城の水堀を眺めつつ、登城することができる。
見学所要時間は約40分といったところ。
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