駿河・久能城(くのう-じょう)は、久能山城、久能寺城とも呼ばれる標高219m、比高150mの山城で、静岡県静岡市駿河区根古屋にあります。
有度山に一部分ではありますが、駿河湾に面し、大変景観も素晴らしいところでして、近くには観光名所「日本平」もあります。
静岡の久能山城は、もともと「久能寺」があった場所でした。
西暦600年頃に久能忠仁が久能山麓に久能寺を建立したのが始まりとされます。
その後、今川家によって改修も行われたものと推測致します。
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1568年、武田信玄が駿府へ進出し、今川氏真を掛川城へ追いやると、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移して(鉄舟寺)、この要害の地に久能城として大改修しました。
岩殿城(山梨県)、岩櫃城(群馬県)と共に、武田の「三名城」とも言われる久能山城になった訳ですが、武田家の最初の城主は板垣信安(いたがき-のぶやす)です。
その後、板垣信安が死去すると、今福友清・今福虎孝・今福昌和が、久能城を守備しています。
武田家滅亡後は、徳川家康の領地となり、久能山城には1583年に松平勝俊(松平源三郎勝俊、久松俊勝の子)が入りました。
1590年、徳川家康の関東移封によって、中村一氏が駿府城主となると、家臣の松下吉綱が久能城主になっています。
関ヶ原の戦いあとの1601年には、大久保弥一郎忠政が久能山城主となり、1606年以降は、榊原清政・榊原照久の父子が在城。
1616年4月17日に徳川家康が駿府城にて没すると、遺言により久能山城は廃城となって愛宕曲輪に埋葬されました。
1617年には、徳川秀忠によって久能山東照宮の社殿が造営され、日光東照宮も造営開始されます。
大工棟梁は、京都大工頭で徳川家より1000石を知行した中井正清で、約1年7ヶ月の工期でした。
栃木県の日光東照宮は3代将軍・徳川家光により「寛永の大造替」が施され、徳川家康を祀る現在の姿になっていますが、徳川家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(明治に破却)、楼門が増築されたと言います。
なお、久能山総門番として代々久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家です。
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久能城(久能山城)への交通アクセスですが、日本平ロープウェイで久能山東照宮を目指すと、階段をたくさん登らなくて済みます。
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