須崎城(すさき-じょう)は、高知県高知県須崎市池ノ内にある標高143m、比高140mの山城です。
天然の良港である須崎港を見下ろす山にあり、須崎の防衛と物見として機能したのでしょう。
姫野々城(半月城)を本拠にした津野氏の所領だったようですが最初の築城などは不明です。
山麓に、津野親忠の屋敷跡、家老である山内右衛門大夫の屋敷跡があることから、戦国時代にはもちろん使われていました。
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津野親忠(つの-ちかただ)は、長宗我部元親の3男で、母は蜷川親順の娘・元親夫人です。
仁淀川の戦いなどで敗れた津野勝興が長宗我部氏の圧迫に剃髪して降伏し、養子として津野親忠を迎えたと言う事になります。
ただし、豊臣秀吉の四国攻めを受けて、1585年に長宗我部氏は降伏すると、人質として14歳で豊臣家に出されたのは津野親忠でした。
1586年、戸次川の戦いで、長兄・長宗我部信親が討死すると、長宗我部氏は跡目争いになります。
この時、兄・香川親和、津野親忠、そして弟・長宗我部盛親と、誰を次期当主にするかで、長宗我部氏の家臣らは争いとなります。
長宗我部盛親を押した久武親直の讒言に加え、豊臣氏での人質だった際に藤堂高虎と親しかったこともあり、津野親忠は父・長宗我部元親からも嫌われて、家督は弟・長宗我部盛親が継ぐことに決まりました。
朝鮮攻めでも武功があった津野親忠でしたが、そのような経緯もあり、1599年3月、父・長宗我部元親は、津野親忠を幽閉したようです。
1600年、関ヶ原戦いにて、長宗我部盛親は石田三成に味方しましたが、その西軍は敗れます。
そして、津野親忠は、井伊直政の仲介を受けて、徳川家康に謝罪しようとしましたが、久武親直が「藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したとされます。
そのため、津野親忠は1600年9月29日、香美郡岩村・霊厳寺にて殺害されました。享年29。
このことを聞いた徳川家康は、長宗我部盛親を「兄殺し」とし、所領没収の理由にしたともされます。
のち、山内一豊が土佐・深浦城に入ると、津野親忠自殺の件を調査し、須崎代官・柏原新之丞から、津野一族の中平清兵衛が知っていると報告されています。
なお、悲劇の死となった津野親忠を悼んだ領民らは、津野神社を建立し弔っています。
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さて、須崎城ですが、そんなに整備されていないようでして、夏場は困難な登城になるようです。
このあとは、土佐・窪川城へ向かいました。
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