美濃・大井城(おおい-じょう)は、岐阜県恵那市大井町内城にあり、阿木川右岸の河岸段丘に築かれた平山城(丘城)で、比高は10mほどです。
現在の大井小学校のグランド、小学校の校舎、恵那高校の敷地などに連郭式の曲輪が配置されていたと考えられます。
最初の築城としては、美濃守護になった土岐頼貞の兄・土岐定親の玄孫にあたる、原秀行が永享7年(1435年)に築城したとされますが、確証は無いようです。
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1438年、室町幕府将軍・足利義教は、永享の乱の鎌倉公方・足利持氏を攻略します。
この際に、美濃守護の土岐持益は、この大井に原秀行を派遣して、信濃との国境警戒に当たらせました。
原秀行は美濃大井城を整備したようで、名も大井秀行(大井遠江守秀行)と改めています。
当時、鎌倉公方が足利持氏は、信濃守護・小笠原政康と豪族の村上頼清が争っている隙を突いて、信濃に軍勢を送っていたことが関係していると推測致します。
そして、足利義教は、美濃守護・土岐持益や、越前・朝倉孝景らに足利持氏の討伐を命じて、信濃を鎮圧し、鎌倉も攻略したと言う事になります。
1473年には、小笠原家長が木曽家豊らと東美濃へ侵攻した際に、荻島城や大井城を攻撃した模様です。
ただし、大井城のすぐ西側には、恵那市指定史跡になっている鷹撃谷城(たかちがやじょう)があり、そっちが古い時代の大井城であった可能性もあります。
以後、小笠原氏が御嵩城辺りまで、しばらく支配しましたが、戦国時代になると、美濃・岩村城の遠山氏が勢力を盛り返します。
そして、美濃・大井城も遠山氏が支配することになり、遠山十八子城のひとつになりました。
美濃大井城には、遠山景任の重臣・藤井宗常・藤井常守の兄弟が入っています。
藤井氏は、京都の伏見稲荷を勧進して守護神とし、大井城を復興させたと言い、鷹撃谷城には、藤井常守が入ったともされます。
そのため、この時、新しく大井城が築かれた可能性も捨てきれないでしょう。
武田信玄の美濃侵攻が始まると、秋山信友が美濃・大井城を攻め落とし、一時、武田勢の拠点となって秋山虎繁が入っていますので、かなりの規模であったと推測されます。
そして、甲州流の築城技術にて、大改築されました。
美濃・遠山氏は織田信長の圧迫も受けたため、度々、武田、織田にて転々としています。
1574年、武田勝頼が美濃・明知城を攻略した際に、大井城も武田の軍門に降るなど、支配が度々変わっています。
1582年、織田信長の甲斐攻めの際には、織田信忠らの大軍が大井城を攻め落とし、その後、廃城になりました。
なお、中山道の抑えであり、江戸時代、大井宿は、美濃十七宿の中でも繁盛した宿場町となりました。
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美濃・大井城への交通アクセス、行き方ですが、JR中央本線・恵那駅から900m、歩いて15分ほどなります。
駐車場はありません。
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