備後・亀寿山城(かめじゅやま-じょう)は標高139m、比高120mの山城で、もともとの漢字は、亀地であったことから亀地山城とも言います。
築城年代は不明ですが、鎌倉時代に宮正信(宮下野守正信)が築いたとする説がありますが、この宮正信についてもよくわかっていないようです。
宮氏の出自に関しては、初代・宮下野守正信(下野判官正信)が、藤原鎌足の23代下野判官代と関係があるともされ、応長元年(1311年)に、備後国守護となって下向したともされます。
また、備後の吉備津神社の社家を務めたとする説が通説になっているようで、一説には吉備公の子孫ともされます。
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このように宮氏は中世より備後国(広島県)の東部に勢力を誇った武家で、亀寿山城は宮氏総領家の拠点となりました。
宮兼信(宮下野守兼信)は、康永元年(1342年)に、伊予国の土肥昌義攻めにも参加し、1362年には、備後に侵攻した足利直冬の味方になるのを拒否して、宮兼信(宮下野入道)は足利尊氏に従い亀寿山城に篭城しています。
この功にて、足利尊氏より備中国の守護職を拝領し「宮上野介家」として室町幕府将軍近習・奉公衆として仕え、戦国時代に至るまで備後国で大きな勢力を持ちました。
その子孫は「上野介家」と「下野守家」と別れましたが、下野守家が宗家と考えられています。
戦国時代になると、月山富田城の尼子経久に従いましたが、天文10年(1541年)に下野守家が断絶し、宮直信は病死するなどしている中、天文17年(1548年)頃には大内氏に攻められて、宮元盛は降伏して没落しました。
宮元盛は、いったん叔父・宮光音の元に身を寄せて、1551年に、尼子氏の協力を得ると、亀寿山城の奪回を試みています。
志川滝山城に入って蜂起しましたが、1552年、大内義長の命を受けた毛利勢が志川滝山城を攻撃し、志川滝山の戦いとなり、宮光音らが討たれて宮一族は鎮圧されました。
この滅亡にて、宮氏に関するまとまった史料や系図類は失われています。
こうして、惣領家は滅亡しましたが、のちに毛利元就に従った有地氏(宮高信)、久代宮氏、日野氏などの庶流(一族)が江戸時代には長州藩士となっています。
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亀寿山城へとの登城口はいくつかあるようですが、東麓の安養寺境内の右側から登るのが一般的なようです。
JR福塩線の新市駅から登城口のある安養寺まで徒歩15分となります。
そこから、亀寿山城の本丸まで、約25分です。
ただし、遺構はあまり残されていないようです。
また、宮氏一門の墓は、久代宮氏の菩提寺である浄久寺の裏手の山麓にあるとのことです。
さらに大原石塔群(福山市山野町)も宮氏の墓ということです。
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