飯羽間城(飯場城)
飯羽間城(飯場城)(いいばまじょう)は、岐阜県恵那郡岩村町飯羽間上切地区にある平山城で、梯郭式と連郭式の混合縄張です。
標高は530m、比高は20mほどとなります。
飯羽間城は鎌倉時代、遠山氏によって築かれた城と伝わりすま。
遠山氏の分家である、飯羽間遠山氏の本拠となった城で、岩村城の支城としての役割の他、、明照城・苗木城との繋ぎの城としても機能しました。
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戦国時代には遠山友勝が城主となっています。
しかし、織田信長の命によって苗木城へと移ると、子の遠山友忠が城主となりました。
その後、遠山友忠も阿寺城へ移ったため、子の遠山友信が飯羽間城となります。
しかし、1574年に武田勝頼が苗木城、串原城などの遠山18城は次々に落とし、最後の残った遠山氏の城は飯羽間城だけとなりました。
でも、この飯羽間城戦いは、膠着状態となり長引いたため、馬場信春や内藤昌豊は甲斐に戻ろうと武田勝頼に進言したとあります。
しかし、武田家の浪人衆・名和無理介、井伊弥四右衛門、五味与三兵衛などが、自分たち浪人衆に飯羽間城を攻めさせて欲しいと願い出ました。
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これに対して、旗本・近習衆と、外様・近習衆らは、飯羽間城をこのまま残しておくと、織田勢の情報拠点になるのではと主張して、撤退しようと言う家老衆らを批判します。
また、長坂光堅や跡部勝資らは浪人衆の意見を尊重すると、家来や他国への聞こえが悪いとしたため、結局、武田主力にて飯羽間城の城戸を打ち破り、陥落させました。
織田家から援軍として派遣されていた武将14騎と、城兵350人を残らず討ち取り、飯羽間城の城将を生け捕りにして土蔵で捕虜にしたとあります。
現地を訪れますと、飯羽間城はそんなに大きくは見えませんでしたので、意外でしたが、岩村城の移築門が、飯羽間城近くの徳祥寺の山門になっていますので、セットでどうぞ。
飯羽間城と徳祥寺がある場所は、オリジナルGoogleマップ「美濃」にてご確認を賜りますと幸いです。
ちなみに、飯羽間(いいはざま)と言う地名の意味は、米が採れる山峡ということになります。
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