相方城(さがたじょう)は、広島県福山市新市町にある山城で、別名を佐賀田城、鬼ヶ滝加山城とも言います。
標高は191m、比高は170mと結構な山城になっています。
戦国時代の1563年に、知勇兼備の勇将として知られる有地元盛(ありちもとのぶ)が築城したと伝わります。
備後・有地氏は、備中国の守護も務めていた亀寿山城主・宮氏(みやし)の一族ですが、月山富田城の尼子氏に従ったあと、1548年頃に大内氏の攻撃を受けて没落しています。
庶子だった有地城主・有地隆信(あるじ-たかのぶ)は、大内家に従って、大内義隆から偏諱も受けています。
スポンサーリンク
1555年には、有地隆信が利鎌山城の戦いで福田勝雅を討ち取り、やがて新市周辺の宮氏旧領も取り戻したようです。
有地元盛のときには、1576年に、第一次木津川口の海戦にて毛利水軍として出陣しており、村上亮康、渡辺元盛とともに兵糧を運ぶなど戦功を挙げています。
また、播磨・上月城の戦いでも、尼子勝久、山中鹿介相手に奮戦しました。
ただし、有地氏に関しては史料が焼失したこともあり、よくわかっておらず諸説ありますこと、ご確認申し上げます。
相方城の北を流れる芦田川を挟んで対岸の奥には、宮氏の本拠だった亀寿山城があります。
なお、毛利家は神辺城の杉原氏や有地氏を出雲へ移封して直轄地にします。
そして、1591年頃から相方城を整備し、山頂付近には空堀や曲輪群などの城郭が構築されました。
打込接の総石垣で構成されている部分もあります。
また瓦葺の櫓や城門も設置され、近世城郭過渡期の山城となりました。
しかし、1600年、関ケ原の戦いで毛利家が減封となると相方城は廃城となっています。
城門や櫓は、麓のにある備後一宮・素盞嗚神社に移築(ページ下部にてご紹介)されています。
現在の本丸にはテレビ送信塔が複数設置されていますが、なかなか、本丸の広さはありました。
交通アクセスですが、小型車であれば、山頂付近まで山道を車で登ることができますが、道は狭いほうです。
また、終点の駐車スペースは狭く2台も止まりますと、後続車は困ってしまうような感じです。
ただし、その終点までクルマで上がってしまえば、観光所要時間は15分ほどと、短時間で訪問できます。
なお、あまり人も訪れないところですので、スズメバチの巣やマムシに注意が必要です。
徒歩で歩く道も下記のように、安全対策は、なにひとつ、取られていませんので、転落しないよう、ご注意願います。
素盞嗚神社
という事で、麓の新市にある素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)も訪問させて頂きました。
牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社となります。
創建は679年頃とされ、遣唐使であった吉備真備が、唐から帰国したあと、734年に備後から素盞嗚命を播磨・広峯神社に勧請したとされます。
素盞嗚神社・本殿は、入母屋造檜皮葺で、備後・福山藩の初代藩主になった水野勝成が再建したと伝わります。
下記は、神楽殿で、祇園祭のときに、3基の神輿が納められるそうです。
下記は、ちょっと面白い造りですが、随神門と言います。
ところで、訪問前の事前調査にて、この素盞嗚神社に、相方城の城門、2つが移築されていると情報を得ていました。
しかし、その門の姿・形と数を勘違いしまして、いざ、訪問してみましたら、上記の門だと思いこんでしまいました。
そのため、申し訳ありません。
移築門の写真、欠落しています。
はるばる700kmの距離をきて、お恥ずかしい限りです。
北門と、中門が、移築された門だと言うことで、宿題ができてしまいました。
ちなみに、移築された櫓は、1970年代の火災で焼失したとの事です。
なんて、もったいないことを。
もしかしたら、戦国時代の「山城」にあった櫓としては、最古級だったかも知れません。
相方城や素盞嗚神社への行き方は、当方のオリジナル地図をカーナビ代わりにご使用頂けると、便利かと存じます。
・神辺城(村尾城) 約280年間も備後の中心地だった山城
・備後・亀寿山城 幻の名族となった宮一族の滅亡
・山陽にある史跡めぐり用オリジナル地図
この記事へのコメントはありません。